大阪高等裁判所 昭和63年(う)677号 判決 1991年9月26日
《目次》
被告人の表示等
主文
理由
第一はじめに
一控訴趣意及び答弁
二公訴事実及び原判決の要旨
1 本件公訴事実
2 原判決の要旨
三争点
四被告人の逮捕及びその後の身柄関係並びに原審公判審理の経過及び逮捕以後の被告人の特異な言動など
五判断の骨子
第二控訴趣意に対する判断
一証拠上明確な本件の事実関係並びに証拠の概要など
1 被害者の行方不明、死体の発見、死体発見現場の状況及び被害状況など本件の事実関係
(一) 被害者の行方不明及び死体の発見など
(二) 被害者の死体発見現場の状況、同所の位置関係及び付近の状況
(三) 被害死体の状況など
2 被告人の身上・経歴、被害者との関係及び事件発生前後の被告人の行動など
(一) 被告人の身上・経歴など
(二) 被告人と被害者Aとの関係
(三) 事件発生前後の被告人の行動
3 死体発見現場及びその付近から発見された物とその鑑定結果
(一) 発見状況
(二) これらの鑑定結果などについて
① 本件鞘
② 液状様のもの付着のちり紙を丸めたもの二個
③ 軍手
④ 被害者の着衣
4 被告人の逮捕並びに逮捕後被告人から押収した物及びその鑑定結果
(一) 被告人の逮捕
(二) 被告人から押収した物についての鑑定結果
① 被告人の着衣等
② 被告人から押収したちり紙と現場から発見されたちり紙のかたまりの同一性及びちり紙に採取した被告人のたん様のものの鑑定結果について
5 認定事実などから推認できる事実、本件証拠関係の概要及び以下の検討順序について
二情況証拠等の検討
1 現場遺留の木製鞘について
2 現場に遺留されていただ液付着のちり紙について
3 三月一九日ころ伯太町において被告人と被害者を目撃した旨の供述、又は子供連れの被告人から一〇〇円貰った旨のFの供述の信用性について
(一) Cの供述の信用性
(二) Jの供述の信用性
(三) F1がその子Fから聞いた内容について
(四) S警備に被告人が子供を同行していない事実の検討
(五) 目撃証拠についての総括
4 その他の情況証拠について
(一) 現場遺留の軍手について
(二) 被告人の防寒上衣の右そでに被害者と同一の血液型の血が付着し、被告人の短靴の底等に人血が付着していたことについて
5 被告人のアリバイの主張及びその他の被告人の本件犯行を否定する可能性のある証拠について
(一) アリバイの主張について
(二) 三月一九日の被害者の足どりについて
6 まとめ
三被告人の自白調書の任意性、信用性の検討
1 被告人の供述経過と自白の概要
(一) 被告人の供述経過
(二) 自白の概要
(三) 被告人の弁解内容
2 自白調書の任意性について
3 自白調書の信用性について
(一) 原審検察官が自白調書の中で犯人しか知り得ない事実を自供していると主張している点について
(1) 使用凶器についての自白
(2) 犯行態様についての自白
(3) 被害者の陰茎切り取り事実についての供述
(4) 三月二一日の行動に関する供述
(二) 後藤巡査部長あての手紙及び被害者の両親にあてた手紙について
(三) 大阪拘置所新入調べ室における被告人の言動(原判決後の事実取調べの結果新たに判明した事実)
(四) 被告人の捜査段階の否認供述の不自然性
(1) 概要と原審検察官の主張
(2) 三月二〇日の西成警察署での弁解並びに逮捕直後の被告人の否認供述について
(3) 被告人の検察官に対する否認供述について
(五) 原判決が被告人の自白調書の内容に客観的証拠によって認められるところと齟齬し又は不自然・不合理なところがあると判示している諸点について
(1) 自白と客観的証拠との食い違い又はその可能性を指摘する点について
① 現場に遺留されていた軍手から人血はおろか血痕付着の証明が得られなかった点について
② 被告人の着衣等に付着した血痕の量が少なすぎると指摘している点について
③ 被害者の前胸腹部の刺創の形状
④ 被害死体の姿勢
⑤ 犯行現場への経路
(2) 自白に犯人であれば当然なさるべき説明が欠けていたり、自白のなかの不自然ないし不合理な説明であると指摘している点について
① 被害者の顔面打撲及び死体に乗せられていた松の木の枝について
② 被害者の着衣等の投棄場所について
③ 凶器の未発見
(六) 本件犯行の動機並びにそれと関連して被害者の陰茎切除の理由について
(七) まとめ
四総合的考察
第三自判
(罪となるべき事実)
(証拠の標目)
(累犯前科及び確定裁判)
(法令の適用)
(量刑の理由)
主文
原判決を破棄する。
被告人を無期懲役に処する。
原審における未決勾留日数中一五〇〇日を右刑に算入する。
理由
第一はじめに
一控訴趣意及び答弁
本件控訴の趣意は、大阪地方検察庁検察官渡邉悟朗作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、弁護人中道武美作成の答弁書及び同訂正書記載のとおりであるから、これらを引用する。
二公訴事実及び原判決の要旨
1 本件公訴事実
「被告人は、
第一 昭和五七年三月一九日午後零時ころ、大阪市西成区萩之茶屋二丁目四番地萩之茶屋中公園において、かねて被告人になついていたA(昭和四九年一一月三〇日生)と遊んでいるうち、同児を連れ歩こうと考え、同児に対し、「飯を食いに行こう」などと甘言を用いて誘惑し、同児の両親に無断で前記公園から同児を連れ去り、付近の丸安食堂で食事をさせた上、国鉄阪和線天王寺駅から電車に乗車するなどして、同日午後二時ころ、同児を大阪府和泉市伯太町<番地略>先松林内まで連行し、もって未成年者である同児を誘惑し
第二 同日午後三時ころ、前記松林内において、同児と遊んでいるうち、同児が帰りたいと言って泣き出し、泣きながら被告人のもとから逃げ出そうとしたことに激昂するとともに、このまま同児を立ち去らせれば右誘拐の事実が発覚し、検挙されるものと考え、所携の切出しナイフ(刃体の長さ約七センチメートル)で、同児の胸部、腹部、背部を一〇数回突き刺し、よって、そのころその場で、同児を腹部大動脈切破による後腹膜腔内出血により死亡させて殺害したものである。」というものである。
2 原判決の要旨
原判決は右各公訴事実に対し被告人をいずれも無罪とした。その理由の要旨は、第二の殺人の事実につき、被告人は、当時被害者A(以下、「被害者」又は「A」ともいう。)と親しくしており、また、死体発見現場付近の地理に明るかったこと、被告人は、被害者が西成区内から行方不明になった日の昭和五七年三月一九日昼ころ、Aを連れて大阪市西成区萩之茶屋<番地略>の丸安食堂に行って食事を取り、同日午後零時一〇分か一五分ころ、二人で食堂を出たこと、その日の午後二時から四時ころまでの間に、Aの死体発見現場から約五〇〇メートルの距離にある大阪府和泉市伯太町<番地略>株式会社S警備保障(以下「S警備」という。)に現れていること、死体発見現場には、被告人の血液型と同じB分泌型のだ液が付着したちり紙を丸めたもの二個が遺留されていたこと、被告人には盛んにせき払いをしてたんつばをちり紙にとる性癖があること、同じく死体発見現場に切出しナイフの木製鞘が遺留されており、当時被告人がその鞘に適合する切出しナイフを所持していた蓋然性があり、そのナイフはAの傷口から見て本件凶器と考えて矛盾しないこと、被告人が同日着用していたという防寒上衣の右袖先端部四箇所には被害者の血液型と同じA型の血痕が付着し、被告人が履いていた短靴にはその右足内側部二箇所と底部一箇所に型不明ながら人血が付着していたこと、死体発見現場には軍手が遺留され、当時被告人が軍手を常用していたことなどの客観的証拠、情況証拠は認められるものの、どの証拠も被告人と犯人を結び付ける決定的なものとはいえず、いずれも被告人が犯人であることと矛盾せず、相当の嫌疑を抱かせるにとどまり、未だ犯行と被告人とを結び付けるに足るものとはいい難い。また、昭和五七年三月一九日、被告人がAと思われる児童を連れて伯太町に来たのを目撃したとの第三者の二、三の供述証拠も、個々的にはもちろん、それらを総合しても、当日被告人がAを連れて伯太町に来ていたと認定するには不十分である。被告人の捜査段階の自白調書は、その信用性を判断する上で肯定的に働く点がいくつかあり、中にはかなり重みのあるものも含まれているが、いずれも決定的なものとは言えない。自白内容の中には、客観的証拠と符合せず、また供述に不自然な変遷があることや、犯人であれば当然なすべき説明が欠落しており、被告人の自白調書の信用性にも疑問が残る。自白以外の証拠によって認められるところと自白の内容を併せこれを総合的に検討しても、未だ被告人を本件公訴事実について有罪と断定することができず、結局本件については犯罪の証明がないことに帰する、というものである。
なお、第一の誘拐の事実についても、その公訴事実では、Aを萩之茶屋中公園から連れ出した時点に、実行の着手を求めているところ、原判決は、被告人が被害者(A)をその保護者の明示の承諾を得ずに同公園から丸安食堂へ連れていったことは明らかであるが、距離も近く、その時点では食事に誘っただけであることも明らかで、そのかぎりにおいては保護者の承諾も期待でき、被害者をその保護環境から離脱させ、自己の支配下に置いたと評価できず、これまた犯罪の証明がないことに帰する、と判示している。
三争点
論旨は、本件が被告人の各犯行であることは明らかであり、原判決は、被告人の捜査段階の自白には、任意性はもちろん、信用性も十分認められ、かつ、これを裏付ける多数の客観的証拠が存在しているのに、被告人の公判段階での弁解を安易に容認し、本件の特殊性を考慮に入れず、証拠の取捨選択、価値判断を誤り、全証拠を総合して有機的全体的な判断をすべき採証法則の基本を忘れ、各証拠を個々別々に切り離して評価するという重大な過ちを犯し、その結果事実を誤認したものであって、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかである、というものである。
原審以来の被告人の弁解ないし弁護人の主張の骨子は、①本件公訴事実は被告人にとって身に覚えのないものであって、②被告人の司法警察員に対する自白は強制・拷問・不当な誘導などによるものであり、検察官に対する自白は警察官の拷問等の影響下でなされたもので、いずれも任意性に欠け、③そうでなくても信用性がない上、④他に被告人と犯行とを結び付ける証拠はなく、かえって、⑤被告人にはアリバイがある、というものである。
四被告人の逮捕及びその後の身柄関係並びに原審公判審理の経過及び逮捕以後の被告人の特異な言動など
論旨に対する検討に先立ち、被告人の逮捕以後の経過事実中、今後の判断の過程で考慮の必要があると思われる事実を概観する。関係証拠によると次の事実が認められる。これらの事実は、検察官、弁護人ともおおむね争わないところである。
被告人は、昭和五七年四月九日仕事先の神奈川県平塚市内のT工務店の作業現場で大阪から被告人の捜査に赴いた警察官に地元の平塚警察署まで任意同行を求められ、同署で誘拐、殺人の罪で通常逮捕され(逮捕状の緊急執行)、同日中に本件捜査本部の置かれていた大阪府内の和泉警察署に引致され、同月一一月勾留され、引き続き身柄拘束のまま取調べを受け、同月三〇日起訴された。被告人の捜査段階の勾留場所は代用監獄である和泉警察署と指定され、起訴後の五月一日大阪拘置所に移監され、原審の審理中はそのまま勾留が継続している。
被告人は、昭和五七年四月三〇日、本件誘拐、殺人の罪で大阪地方裁判所に起訴され、昭和五七年六月二三日原審第一回公判が開かれた。被告人は公判廷で犯行を全面的に否認し、弁護人は、検察官請求のほとんどの書証を不同意にしたため多くの証人調べ等で期日が経過し、同六三年三月三日結審するまで五六回にわたって公判期日が開かれた。その間裁判所の構成も何回か変更し、判決裁判所を構成した裁判官三名が最終的に審理に関与したのは第四九回公判の昭和六二年一〇月二日からである。もっとも、その中の三角比呂裁判官だけは第四〇回公判の昭和六一年五月七日から結審まで、第四七回公判を除き、すべてに関与している。原審における被告人質問を除く重要な証拠調べのほとんどは判決裁判所以外の裁判官によって実施され、判決裁判所を構成する三名の裁判官全員が直接関与した証拠調べは、被告人質問(第五〇回公判ないし第五四回公判及び第五六回公判)並びに被害感情等に関する被害者Aの母親A2、凶器に関する元□□病院の警備員B(いずれも第四九回公判)、被告人の精神鑑定をした鑑定人牧原寛之(第五〇回公判)の各証人尋問、犯行時刻の直前に被告人と被害者を目撃したとされるCの期日外の証人尋問に止まる。
被告人は逮捕当初からかなり粗暴な態度を示し、駆け付けた報道関係者にくってかかり、「ぶっ殺してやる」などの暴言をはき、後にふれるように取調べ警察官に殴りかかったり、取調官の隙を見て調書を取り上げて破ろうとするなどの行動が見られた。また、原審裁判所に、「自分は拘置所で薬を飲んだところ、体の調子が悪くなった。薬と偽って毒物を飲まされたに違いない。出廷に際し、その薬を隠して持ってきたので鑑定してほしい。」などと訴え、審理中の裁判所が鑑定に出した結果、市販の正常な薬と判明した。拘置所内でも夕食を便器に投げ込み、「毒の入ったもの食えるか」などの粗暴な態度や暴言がしばしば見られた。また、昭和五九年三月九日午後一時四五分ころ、原審第一九回公判のDの証人尋問の際、証人席で証言中の同女めがけて後方の被告人席から、やにわに所携の筆記用厚板紙製用戔ばさみ(ホルダー)を投げつけてその後頭部に命中させ、同女に加療約一週間を要する頭部挫傷を負わせる暴行を加え、同日の右証人尋問の施行を中止するのやむなきに至らせている。右事実のため、被告人は、昭和五九年三月一六日付けで法廷等の秩序維持に関する法律に基づいて監置一〇日間の制裁を受け、更に右事件について大阪地方裁判所に傷害罪で起訴され、同年一一月一四日懲役五月の判決があり、被告人が控訴したものの棄却されて、昭和六〇年五月一七日裁判が確定し、本件が原審係属中にその執行が終了した。なお、中断したDの証人尋問は、昭和五九年六月一日期日外で公判準備として実施された。被告人は原審公判では右Dの事件以外にも捜査段階で被告人の取調べを担当したりそれに立ち会った警察官の証人尋問の時や被告人質問の段階でしばしば「ぶち殺してやりたい」とか「ちきしょう」などの暴言をはき、興奮し、裁判長からたしなめられている状況が認められる。また、原審は弁護人からの被告人の精神鑑定等の請求を採用して被告人を鑑定に付したが、その鑑定実施段階で鑑定に同席した拘置所職員に対して、自分の手錠を外すよう要求して激しい攻撃的な言辞を示している(その事実は、鑑定人牧原寛之作成の鑑定書に記載されているところ、特にそこには要求自体には首肯できる点があるが、その要求のための激しい言辞は通常の情動統制の域を越えている旨記載されている。)。被告人は、昭和六三年四月二六日原審で無罪となり、逮捕以来初めて釈放されたが、その後に犯した事件で当審継続後の昭和六三年一二月三日大阪地方裁判所に殺人未遂罪で起訴され、同事件については大阪高等裁判所で平成二年三月八日傷害罪(起訴事実とは認定罪名が異なっている。)により懲役一年二月の刑が言い渡されて確定し、未決勾留日数の刑算入分を差し引いた残刑の執行が平成二年二月二三日から同年三月二三日までなされている。
五判断の骨子
当裁判所は、事案の複雑、重大性及び事実審裁判所である原審が無罪の判決をしたことの重みにかんがみ、慎重に審理し、特に、必要な証拠調べについては現場検証を含めできるだけ時間をかけて実施した。その結果、控訴審が一審の無罪判決を破棄して、自ら有罪判決を言い渡すことは、重大事件においては特に異例のことであり、慎重の上にも慎重な検討を重ねたのであるが、以下の理由から、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認があって破棄を免れず、本件公訴に対しては有罪の認定をせざるを得ないのであって、主文の結論に達した次第である。
第二控訴趣意に対する判断
そこで、所論及び答弁にかんがみ記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果並びに当審各弁論をも併せ検討する。
なお、説明の便宜上、判文及び引用の証拠について、別段の表示をするほかは、以下の用例に従うことがある。
① 証人又は被告人の供述もしくは供述記載については、原審、当審各公判を通じ、公判廷における供述、公判調書中の供述記載部分又は裁判所の尋問調書とを特に区別しないで用いる。
② 検察官に対する供述調書を「検面調書」、司法警察員に対する供述調書を「員面調書」と表示する。
③ 証拠物の押収番号は、大阪地裁昭和五七年押第五五九号の符号一ないし一七であり、また大阪高裁昭和六三年押第二二五号の符号一ないし一七であって、いずれも符号が共通するので、符号のみで表示する。
④ 年月日のうち、特に年を表示しないものは、昭和五七年の月日を示す。
⑤ 注として入れる部分はいずれも当裁判所が付した注意的説明である。
一証拠上明確な本件の事実関係並びに証拠の概要など
原審で取調べられた関係各証拠及び当審における事実取調べの結果を総合すると、原判決がその理由の第二本件犯行をめぐる事実関係として認定している事実を含めて次の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。以下、本項では控訴趣意に対する判断の前提として、適宜原判決認定の事実を引用しながら、本件犯行の概要、被告人の身上・経歴関係、被告人と被害者との関係、被告人逮捕に至る経過、捜査の過程で発見・収集された物的証拠及び被告人の捜査段階の自白等本件の証拠関係の概要を明らかにしておく。
1 被害者の行方不明、死体の発見、死体発見現場の状況及び被害状況など本件の事実関係
(一) 被害者の行方不明及び死体の発見など
被害者Aは、昭和四九年一一月三〇日生、父A1、母A2の長男で、家族とともに大阪市西成区天下茶屋<番地略>○○館に居住し、昭和五七年三月当時、同市立今宮小学校一年生に在籍していた男児であるが、三月一九日(金曜日)は卒業式の関係で学校が休みであったため、午前中から近所に遊びに出掛け、昼近くには同区萩之茶屋二丁目四番萩之茶屋中公園(通称「四角公園」、以下、同所を同通称名で表示する場合もある。)で友達とビー玉遊びをしていた。しかし、同日午後七時ころになっても帰宅しなかったため、母親が自宅付近を捜し始め、西成警察署に相談に行き、再度自宅付近を捜すとともに、午後一〇時五〇分ころ正式に同署に迷子として届け出た。届出を受けた同署警察官は、直ちに迷子手配の手続を取るとともに、翌三月二〇日朝、捜索手配のため母親にAの写真を提出させたところ、この写真の一枚にAとともに被告人の姿が写っており、母親がAを連れ出したのは被告人ではないかと言うので、母親を同道して被告人に会い、その後、同日二回にわたって被告人を西成警察署に呼んで事情を聴取した。被告人は、事情聴取に際して、三月一九日昼ころAを誘って四角公園の近くの丸安食堂に行き、同人に昼食を食べさせてやったが、その後食堂の前で別れ、自分は一人で天王寺公園に行った、と供述したにとどまり、以後Aの行方についてそれ以上確実な手掛かりを得られないまま日時が経過した。
ところが、四月五日たまたま大阪府和泉市伯太町<番地略>付近の松林内で遊んでいた小学生が同所で死体を発見し、最寄りの派出所に届け出たところ、それが行方不明中のAの刺殺死体と確認され、直ちに大阪府警察本部(以下「府警」ともいう。)では和泉警察署内に捜査本部を設置して捜査を開始した。以後の捜査は、府警刑事部捜査一課所属の戸次治雄警部(以下「戸次警部」ともいう。)を班長とする戸次班の八名の警察官が中心となり、それに和泉署及び西成署の警察官が加わって合計約四三名で進められた。
なお、被害者はいまだ小学校一年生で、母親のA2の原審第四九回公判における証言及び同人の六月三日付け員面調書によれば、和泉市又はその近くにその両親の親族や知人などおらず、Aは、母親から知らない人に付いていかないように日頃から躾けられており、同人の生活・行動範囲からみて単独で死体発見現場付近に行ったとは考えられない。
(二) 被害者の死体発見現場の状況、同所の位置関係及び付近の状況
被害者の死体が発見された現場は、大阪府和泉市北西部の丘陵地帯、和泉市道伯太―山荘線沿いにある大阪市立青少年野外活動センター建設予定地の一角で、下草に熊笹などが密生する松林の中、道路沿いの最寄りの電柱(ゴルフ一四)からけもの道様の踏みつけ道を経て同電柱から東北東へ約13.6メートル入った窪地状のところである。死体の位置から東北およそ三〇メートルのところに北西から南東に延びる溜池(山池)があり、その岸近く及び死体位置から見て北西方向になる伯太―山荘線に通ずる部分等に前同様の踏みつけ道がある。また、死体から北へ約23.5メートル、北東へ約二五メートル、東へ約四〇メートルのいずれも山池沿いの踏みつけ道周辺の熊笹等に少量ながら血痕陽性反応(ルミノール検査、ヘモグリン検査による。)が認められた。
なお、死体発見現場及びその付近の位置関係は別紙見取図1、2、3(同図面は原判決添付の見取図1、2、3を利用したが、1の図面に洋菓子店タカラブネ信太山店及び煙草・日用雑貨類を販売している河野商店等を、また、同2の図面に同商店等をそれぞれ記入。)のとおりである。また、現場は、当時の国鉄阪和線信太山駅から南東へ直線距離で目測約1.2キロメートルである。前示のゴルフ一四の電柱から約一五〇メートル北上したあたりに三叉路がありその南西角に河野商店が位置し、当時もその付近は一般住宅が密集していた。しかし、山池及び道路を挾んでその西側に位置するあそ池の付近には人家はない。ゴルフ一四の電柱から伯太―山荘線に沿って東方向へ約一五メートル行った西側は大阪市立信太山老人ホームの敷地となっている。更にゴルフ一四の電柱から南南東にゴルフ一五の電柱までの距離は約四四メートル、大阪市立信太山青少年野外活動センター入口までの距離は一五〇メートル以上、同キャンプ場入口までは更に三〇〇メートル以上の距離がある。ゴルフ一五の電柱と右野外活動センター入口との間の東側には上池が、更に野外活動センターとそのキャンプ場入口の間には高津池がそれぞれ行く手を遮るような形で位置している。
(三) 被害死体の状況など
被害者の死体は、足に靴と靴下をつけただけの全裸、うつ伏せ、左腕は足の方向へほぼまっすぐに下げ、右腕はほぼ肩の高さで肘を曲げて前腕を上方(頭の方)に向け、足は右足を外に開いて両足を伸ばした姿勢で発見され、手には左に熊笹の葉一枚と松葉二本、右に熊笹の葉二枚を握りしめていた。うつ伏せになっている死体を仰向けにすると陰部は蛆虫で盛り上がっており、胸部に付着していた熊笹の葉は多量の血液が付着して赤茶色様の色になっていた。死体を引き上げると、死体があった胸部付近地上熊笹の葉には多量の血液が付着していた。また、死体の体側に沿って折れた松の木が置かれ、その枝の一本が死体の左肩口から背部に乗せられており、この松の折れ口は、死体頭部から約1.73メートル離れた地点の松の立木の折れ口と一致している。
本件死体解剖に当たった近畿大学医学部教授、医師吉村昌雄(以下、吉村鑑定医ともいう。)の原審第一六、一七回公判における証言、同人作成の鑑定書(死体解剖結果、なお、右鑑定書によれば、解剖日時は死体発見当日の四月五日午後五時一〇分から午後七時まで、解剖の立会人には和泉警察署司法警察員佐々木義光がなっている。)及び同人の当審第四、第六回公判証言によれば、被害者の血液型はA型、死体には、前額部に擦過傷一、右眼裂上下及び眼球結膜部に打撲傷一(右眼裂上下には約四×二センチメートル大の皮内、皮下出血があり、眼球結膜には軽度の出血を伴う。)前頸上部に刺創一、前胸部に刺創六、腹部に刺創五、背部に刺創五、右耳介後部(前記鑑定書及び原判決では左耳介後部となっているが、誤記と認められる。)から右側頸部にかけてと下腹部から右大腿部に至る部分(外陰部を含む。)に軟部組織の欠損があり、死因は腹部刺創に基づく腹部大動脈刺切破による後腹膜腔内出血と認められる。この腹部大動脈は、周囲が筋肉と脂肪組織で固められており、刺切破部分からの出血速度は非常に緩徐であること、全体の傷もいわゆる返り血を浴びせるようなものではなく、胸部の刺創はまず胸腔内に、また、腹部の刺創は腹腔内にそれぞれ出血し、創口を通じて漏れるという状況が生じ、衣類を着ている場合はその下を漏れて流れるので、胸腹部の損傷からの血液の噴出ということは考えられないほか、頸部の刺創においても太い血管を切破するに至らない、皮下から甲状軟骨に達する傷であることから、出血はあるものの噴き出すような出血はなかったと認められ(原審第一六回公判における吉村鑑定医の証言)、いずれの刺創も心臓を刺通しておらず、被害者は即死ではなく、出血が続いた結果、失血により死亡したと考えられ、受傷から死亡まで一、二時間余りは経過しているものと認められる(当審における吉村鑑定医の証言)。そして、損傷中、刺創は、刃身の長さ七ないし八センチメートル又はこれより長く、刃幅は刺入部まで最広2.4センチメートル、刃背の厚みがやや薄い(0.1ないし0.2センチメートル位)、先端鋭利な片刃の刃物によるもので、前頸上部の刺創以外はいずれも刃をほぼ真下にして被害者の体表に対してほぼ直角に、それぞれ後ろ又は前方向に刺入されたものと認められる。前頸上部の刺創は、刃を斜め下にして後下方向に刺入している。顔面部の擦過傷及び打撲傷は、用器的特徴に乏しいが、いずれも生活反応顕著で明らかに生前に受傷したものと認められる。また、右打撲傷は、手拳もしくはこれに類する表面の滑らかな鈍体によって形成されたと認められ、被害者がうつ伏せに倒れたときにこれにふさわしいものが地面にあれば発起可能であるが、表皮剥離を伴っていないことから被害者が単に地面に倒れただけでは生じにくい。胸腹部及び背部の各刺創では、腹部刺創群に最も生活反応が強く、次いで胸部、背部の順になっており、この順序で加害されたものと認められる。耳介後部から頸部にかけての軟部組織欠損部には明らかな生活反応はなく、死後野犬等に傷つけられたものとみられ、下腹部から大腿部にかけての軟部組織の欠損部は、その傷自体からは、腐敗性変化が著しく、しかも蛆による蚕蝕などがあって、生前に成傷されたものか死後の損傷か解剖所見からは判定できないとされているものの、その損傷範囲は広く陰茎も欠損しており、同部分も含めてその部位は、うつ伏せになった死体の下部にまで及んでいる。被害者の胃内には、米飯粒、キャベツ、肉片等を含む褐色混濁液汁約二五〇ミリリットルが残留していた(なお、戸次班所属の植松静夫警部補(以下「植松警部補」という。)作成の捜査メモ(以下「植松メモ」という。)には、消化、摂取後二、三時間という趣旨の記載が存する。)。死後の経過期間は解剖時(四月五日)現在、約半月と推定される。
2 被告人の身上・経歴、被害者との関係及び事件発生前後の被告人の行動など
(一) 被告人の身上・経歴など
被告人は、大正一三年一月六日神奈川県内で出生し、川崎市内の尋常小学校へ進んだが、中退し、その後新聞配達や靴磨きなどの職を転々とし、一六歳のころから窃盗罪等を重ねて検挙され、少年院に収容された後、服役を繰り返すようになった。その犯罪傾向を見てみると、三五、六歳ころまでは主に窃盗罪が多かったが、その前後ころから傷害罪等の粗暴犯の傾向が顕著に現れ、その他に、昭和四一年、同四五年及び同五五年にはいずれも幼児又は児童を対象とする略取、誘拐罪を犯して服役している。その中の、昭和四五年の前科が後に問題になる当時知り合いのE(当時一〇歳)及びその妹の略取、誘拐事件である。被告人は昭和四六年には喧嘩の上で人を殺害して、同四九年三月殺人罪により懲役八年の刑に処せられて、そのまま服役しており、本件までに罰金刑で済んだものも含めると、前科一五犯、通算して二二年以上懲役刑で服役している。また、前示のとおり、本件の審理中にも法廷の内外で二回傷害事件を起こし、いずれも懲役刑に処せられて服役している。
被告人は、昭和四二年ころに来阪して西成区内に居住するようになり、日雇作業や靴磨きなどの仕事をし、前記のとおり何度か服役しながら生活していたが、同五五年三月知人の紹介で甲1(当時六五歳)と婚姻した。しかし、同女との仲がうまくいかず、同年八月には一人で東京に出たものの、前記のとおり同年一〇月幼児を略取した事件で検挙され、新潟刑務所に服役した。その服役中の昭和五六年九月に妻甲1が死亡している。
関係証拠、特に原審で取り調べられた鑑定人牧原寛之の証言及び同人作成の鑑定書によると、被告人は八歳のころから首を振ったりせき払いをしたりする運動チック症状が出現し始め、その傾向は一〇代後半から二〇代前半にかけて激しかったようであるが、三〇歳以降その症状はやや軽快したものの、前記鑑定時の昭和六二年ころにおいても軽度の運動チックと奇異な印象を与える鼻をかむチックが見られ、被告人は八歳ころからチック症状を特徴とするジル・ドウ・ラ・トウレット症候群に罹患していると認められる。被告人は、右症状として、原審、当審各公判廷でも盛んにせき払いしては、たん唾をちり紙に取っており、この行動は性癖化していると認められる。また、被告人には小児愛的傾向が窺われる一方で、前記牧原鑑定によると、被告人は爆発的精神病質者と認められ、その性格は、「気分が変り易く、周囲に対し過敏で防衛的、猜疑的、衝動的、爆発的で攻撃的であり、また自己中心的、他罰的で内省を欠く。小児愛的傾向を有するも、同時に衝動的、爆発的性格から、小児が自分に向ける不服従や不機嫌の中に、容易に反抗、裏切り、敵意、軽蔑を感じとり、小児に対する攻撃性として現れる。」などと鑑定されている。その性格傾向は次のような出来事や証言内容の中にもよく出ている。被告人は、西成区内に居住していたころも、新潟刑務所を出所後、昭和五六年一一月から翌五七年二月ころにかけて大阪府和泉市伯太町<番地略>所在の△△荘に居住したが、そのころも、子供をよく可愛がり、連れ歩いて菓子やジュースを買ってやったりしていた反面、その子が気にくわないことをすると急に怒り出し、容赦なく子供に対しても暴力を振るったりしていた。△△荘に居住していたころ隣室のF(当時二、三才、以下「F」という。)が被告人になついて被告人の居室の前で何回か「おっちゃん」と呼んでいたところ、被告人は「うるさい」と言って、Fを平手で殴打して泣かせたこともあった。△△荘の管理人のD(以下「D」という。)の原審第一九回公判での証言によると、被告人は近所の人にも普段はよいが、一つ違うと怖い人で、△△荘に居住中、被告人も世話になっていた△△荘の住人Gや自分(D)に対して、被告人の妻の甲1の遺産を取っていいようにしているとして、包丁を振り回して殺してやると言ったり、包丁を突きつけたりし、Gに対してはその居室まで押し掛け、応対に出た小学六年生位の女の子に包丁を突きつけたこともあった旨証言している。また、被告人の極めて激昂し易い性格傾向は、前示の被告人の前科、逮捕時、捜査時の粗暴な振る舞い、原審段階又は鑑定時の態度などから十分窺える。
(二) 被告人と被害者Aとの関係
被告人がAを知るようになったのは、昭和五五年ころからであり、最初子供達を公園で遊ばせていたAの母親A2に声をかけて同女と知り合い、何回かその住居にも行くようになり、Aとも親しくなった。被告人は、前示のとおり新潟刑務所を出所後、昭和五六年一一月ころから△△荘に居住するようになったが、昭和五六年末ころから同五七年始めころ△△荘から度々西成を訪ね、Aの姿を見かけると、小遣いを与えたり、衣類を買ってやったりして、同人をよく可愛がっていた。
(三) 事件発生前後の被告人の行動
被告人が△△荘に住むようになったのは、服役中に死亡した妻甲1が死亡前に同荘に住んでいたことで、Dがその後に入るよう勧めたためである。そこに住んで当初仕事は、そこから西成区内に通って同区内で日雇作業や靴磨きなどをしていたが、翌五七年一月一七日からDの紹介で地元のS警備にガードマンとして勤務するようになった。和泉市内に居住中、子供好きの性格から近所の子供たちを前記死体発見現場近くの青少年野外活動センター付近に連れて行って遊んでやったりしていた。二月中ころから甲1の残した約一〇〇〇万円の遺産の分配方法をめぐってDと折り合いが悪くなり(因みに、その多くは甲1の兄弟等が取得し、被告人は一〇〇万円余り、Dも甲1の世話代として二〇〇万円余りを取得した。しかも、被告人は、Dによってその分配額の中から△△荘の滞納家賃を差し引かれ、手取りは八〇万円足らずであったので、その分配方法には極めて不満であった。)、二月二七日△△荘を出て大阪市西成区萩之茶屋<番地略>所在の××荘へ引っ越し、DがS警備に対して被告人の保証人であることを打ち切ったりしたため、三月二日にはS警備を正式に解雇された。その後しばらくは甲1の遺産で生活していたが、同月七日夜四角公園で三、四人の男と喧嘩し、胸部を蹴られて左第六肋骨を骨折し、翌八日午後五時ころから同月一八日まで西成区内の□□病院に入院した。
被告人は、三月一九日昼ころ四角公園に行き、そこで遊んでいた被害者ほか二名の子供に近くの商店でビー玉を買い与えて一緒に遊んだ後、被害者一人だけを誘って丸安食堂へ行って昼食を取った。同食堂では被告人は被害者に対し、そこにある好きなものを食べるように言ったが、同人が遠慮した風で明確な意思表示をしなかったので、被告人が選んで小飯とマカロニ、キャベツ、人参、胡瓜、プレスハムの入ったマカロニサラダを食べさせ、午後零時一〇分か一五分ころ二人は食堂を出た。
その日、被告人は、同日午後二時すぎから午後三時すぎころまでの間に一人でS警備に現れ、それまで貰い損ねていた残業手当一四〇〇円を受領し、一〇分位でS警備を立ち去り、その後、阪和線を使って午後四時ころ天王寺駅に帰り、その足で西成区内に立ち戻った。
被告人は、三月二〇日二度にわたり西成警察署に呼ばれ、被害者の行方について事情聴取を受けたが、その時は、被害者とは前日昼一緒に食事をした後に別れ、その後自分は天王寺公園で遊んだりしていた旨供述し、前記和泉市内のS警備に行ったことは話していない。被告人は、翌三月二一日午前再びS警備を訪れ、預かったままになっていたガードマンの制服等を返し、それと引換えに未集金であった電話代の立替分九六〇円を受領した。もっとも、被告人は、この日はS警備に来るとすぐ、一時荷物を置いたまま△△荘のD方へ行くと言ってS警備を出、一〇分か一五分位して、行くのは止めたと言って同警備に立ち戻り、その後電話代を受け取っている。三月二二日午前中、西成警察署の公廨で「俺は疑われている。」などと言ってわめいていた。
被告人は、三月二五日家財道具のほとんどを処分して××荘を引き払い、衣類などわずかな荷物を持ち、知人に紹介された若い女性を連れて上京した。被告人は、××荘を引き払う際、同時に三月一九日ころ着ていた背広上衣も処分している。三月二七日同女とともに横浜市内の実兄Z方を訪れ、同女と結婚すると言って実兄から金を借りたが、間もなく同女に逃げられ、同日上野駅構内で警察官から職務質問を受け、三月二九日自ら浅草警察署を訪ねて逃げられた女の捜索を依頼したが、その際いずれも警察官に本名を名乗っていた。四月一日ころの深夜、上野公園で喧嘩し、その際相手の男性に、頭部を一升びんで殴りつけて頭部裂傷を負わせた。なお、その男性の血液型は捜査の結果A型と判明している。その後、上野公園で知り合った別の女性を連れて再び横浜市内の実兄方を訪れて同人から金を借り、四月三日神奈川県平塚市内にあるT工務店に同女とともに勤務するようになり、前記実兄方に手紙を送って現住所を知らせるとともに、現金の送金を依頼した。
3 死体発見現場及びその付近から発見された物とその鑑定結果
(一) 発見状況
四月五日死体発見と同時に、死体頭部中心から北西へ約1.95メートルの地点に切出しナイフの鞘と思われる木製鞘一本(<押収番号略>、以下「本件鞘」ともいう。)、死体の右足首から北東へ約六一センチメートルの地点に液状様のもの付着のちり紙を丸めたもの一個及び同じく右足首からほぼ同一方向に約1.02メートルの地点に同様のちり紙を丸めたもの一個(これらは<押収番号略>)、前記木製鞘があった地点から更に北に約1.06メートル離れた地点に軍手片手(<押収番号略>)、死体の右腕近くからビー玉二六個などが発見され、同月六日、右現場近くの山池の岸辺、道路沿いの金網(フェンス)から約二メートル山池の岸から約七〇センチメートルのところで、密生する女竹に引っ掛かっている白色メリヤス半袖シャツ一枚(<押収番号略>)が、翌七日、右のシャツ発見地点から南西へ約六メートル、山池の池底から子供用黄色ジーンズ半ズボン一枚(左右のポケットにビー玉合計一七個、<押収番号略>)、そこから約一メートル南西の池底から子供用白色パンツ一枚(<押収番号略>)、翌八日、前記金網の南東約10.4メートル、山池西側岸から約一メートルの池底から青色子供用トレーニングウェア上衣一枚(<押収番号略>)とそれにくっついていた緑色子供用セーター一枚(<押収番号略>)が発見された。
なお、司法警察員作成の四月一二日付け実況見分調書添付写真四三号によれば、木製鞘は発見時上に下草が覆うこともなく地面等に対して浮き上がっており、同所に置かれてそれほど日時を経ていない状況が窺われる。他方、同添付写真六七号によれば、軍手片手は上に枯れ草等がかかり、同所に遺留されて相当の時間が経過している印象が強い。
(二) これらの鑑定結果などについて
① 本件鞘
本件鞘は表面は茶色ニスが塗ってあり、黒い煤様のものの付着が認められる。もっとも、当審提出の技術吏員福田公郎作成の昭和六三年九月二〇日付け「煤の付着実験の結果について(復命)」と題する書面によれば、その変色部分は簡易ガスライターの炎が付着したと考えても矛盾はないものの、微量のため簡易ガスライターによるものかどうか困難というのである。また、本件鞘の外側は長さ約9.3センチメートル、幅約2.8センチメートル、厚み約1.5センチメートルで、内側は幅2.2センチメートル、厚み2.2ミリメートルであり、前記吉村証人(原審第一六回公判)は、あくまでも推測の範囲にとどまると断りながらも、被害者の傷口から見てその中に収まる切り出しナイフ様のものであれば本件凶器として矛盾しないと供述している。なお、肉眼では血痕等は観察されず、血痕予備検査にも陰性、指掌紋も検出されなかった。
② 液状様のもの付着のちり紙を丸めたもの二個
いずれもちり紙数枚を重ねて丸めたもので、内側にはやや粘稠性の液体が付着しており、この部分の検査結果は、口腔に由来する扁平上皮細胞を検出、気管支及び気管支粘膜上皮細胞に由来する胚細胞は発見されず、PAS染色陰性、アミラーゼ検査陽性であり、これらから右ちり紙に付着している粘液はだ液であると認められ、その血液型はB分泌型である。
③ 軍手
同軍手は、縁は緑色の糸を基調とし下に黄土色の糸も認められ、一部白い糸でかがってあり、これらの糸は全体に色褪せている。また、その表面はところどころほころびて穴があき、肉眼では全面に黄土灰色及び灰色の汚染斑痕が認められるのみで、血痕ないしこれに類するものは認められない。ルミノール反応及びリューコマラカイトグリーン試薬による血痕予備検査の結果、小指の付け根付近にやや弱い陽性反応が認められたが、その部分は微小で、抗人血色素血清沈降素検査、抗人蛋白血清沈降素検査には反応せず、結局右部分についても血痕付着の疑いが持たれたのみで、人血は勿論血痕付着の証明も得られなかった。
④ 被害者の着衣
被害者が身につけていた靴及び靴下はもちろん、山池の周辺及びその池の中から発見された衣類は被害者が失踪時着ていたものと確認されているが、その靴及び靴下にはいずれも血痕付着は認められない。
白色メリヤス半袖シャツはほぼ全面にわたり血痕予備検査に陽性反応を呈し、その一部から検査の結果A型の人血証明が得られた。また、このシャツは前面ほぼ中央部の首先にあたる部分からすそにかけて縦方向に切り開かれており、切断部辺縁の形状により上部から下部方向へ刃物によりやや不整形に切り下げられた損傷とみられ、さらに、右切り開かれた部位の両面に約一一個の損傷痕が認められ、右損傷痕はいずれもその辺縁の形状から片刃の鋭利な刃物類により形成されたものと認められる。
子供用黄色半ズボンは、血痕予備検査により、その左側部分に血痕付着の疑いが持たれたが、人血証明検査には反応せずその証明は得られなかった。また、同ズボンの右腰部に長さが縦約2.1センチメートル、刃物によると思われる創縁の精鋭な損傷痕が認められる。
子供用白色パンツ、子供用トレーニングウェア及び子供用丸首セーターは、いずれも血痕予備検査で陽性反応を示し、パンツ及びセーターについてはA型の人血証明が得られたが、トレーニングウェアについては人血証明を得るに至らず、また、セーターの前面にはそれほど峰の厚くない片刃の刃物によると思われる損傷痕七個及び首先部からすそまで切り開かれた部位が、また、右上腕には刃物によるかどうか明らかにし難い損傷部位が認められ、パンツ左右両側及び後下部には数個の切破部位及び損傷部位が認められる。トレーニングウェアの左腹部、左襟部及び左腕部、セーターの左腕部、パンツ後面には焼損が認められ、トレーニングウェアとセーターの各左腕部の焼損部は相互に融解接合している。
4 被告人の逮捕並びに逮捕後被告人から押収した物及びその鑑定結果
(一) 被告人の逮捕
捜査本部では、本件を誘拐、殺人事件と断定して捜査を始め、前示のとおり現場近くの山池などから被害者の着衣等を発見し、被害者の司法解剖の結果などから同人の死因、死体の損傷状況、それから考えられる成傷器の形状などを推認し、その結果、被告人が二月下旬まで△△荘に住んでいて現場付近に土地勘がある、三月一九日午後S警備を訪れている、□□病院に入院した際該当する刃物を持っていた、被告人には幼児又は児童を対象とする略取、誘拐の前科三件がある、三月二〇日西成署で事情聴取を受けたとき、三月一九日の午後は西成に戻るまでずっと天王寺公園にいたと虚偽の事実を述べており、しかも、三月二五日以降西成から姿を消したなどの事実を確認し、さらに、そのころ被告人が子供を連れて現場近くの新聞店と牛乳店に立ち寄っているとの目撃者供述及び三月一九日ころ△△荘に住むFが被告人と思われる人物から一〇〇円をもらったと話していたとの情報を得て、被告人に対する嫌疑を深め、被告人の実兄を介して被告人の所在をつかみ、前示のとおり被告人を未成年者誘拐、殺人罪の容疑で逮捕状に基づいて通常逮捕するとともに、同日中に被告人の身柄を捜査本部の置かれている和泉警察署に引致した。そして、同月一〇日、被告人が三月一九日当時着用していた防寒上衣、黒色長ズボン、黒色短靴及び灰色トックリセーター並びに被告人の毛髪及びだ液を、さらに、同月二〇日被告人携帯のちり紙(<押収番号略>)及びちり紙に取った被告人のたん様のもの若干(<押収番号略>)をそれぞれ任意提出させて押収した。また、四月二五日にも被告人からちり紙若干が任意提出されている。
(二) 被告人から押収した物についての鑑定結果
① 被告人の着衣等
被告人の毛髪及びだ液紙からは血液型B分泌型の判定を得た。また、防寒上衣については、その右そで表先端部四箇所と裏面右そで付け根二箇所に人血付着の証明が得られ、右そで表先端部四箇所の血液型はいずれもA型であり、裏面右そで付け根の血液型はいずれもB型と判明した。短靴については、その右足内側部に二箇所及び底部一箇所に血液型不明ながら人血付着の証明が得られた。防寒上衣前胸部右ポケット付近、前面下部の裏面及びズボン右膝内側部にも血痕付着の疑いのある部分が認められたが、人血証明に至らず、セーターについては血痕付着の証明は得られなかった。
② 被告人から押収したちり紙と現場から発見されたちり紙のかたまりの同一性及びちり紙に採取した被告人のたん様のものの鑑定結果について
当審提出の大阪府警察本部刑事部科学捜査研究所長作成の五月二〇日付け「鑑定結果の回答について」と題する書面によれば、右各資料は、いずれも四ないし六枚のちり紙を重ねたもので、各ちり紙は抄紙機に起因する紋様の現れ方が異なり完全に同一ではないが、円網ヤンキー抄紙機を用いて抄紙されたもので、故紙を原料とし、手もみと思われるクレープ加工がおこなわれており一定の類似性が認められる。被告人から採取したちり紙付着のたん様のものについての鑑定結果は、前記現場遺留のちり紙と同じく喀痰特有の気管及び気管支の粘膜上皮に由来する胚細胞は認められず、口腔に由来する細胞及びだ液の付着が認められ、血液型はB分泌型である。
5 認定事実などから推認できる事実、本件証拠関係の概要及び以下の検討順序について
前認定事実並びにその他の関係証拠を併せ考察すると、被害者は行方不明になった三月一九日同人と顔見知りか何らかの関係を有する人物によって西成区内から連れ去られ、死体発見現場で殺害されたものと認められる。前示のとおり公訴事実記載の被害者の殺害時期は、三月一九日午後三時ころであって、その殺害時刻は被告人の捜査段階の自白に基づくものと認められるが、殺害日に関しては、吉村鑑定医作成の鑑定書には、「死亡経過時間は、昭和五七年四月五日午後七時現在、大約半月位(一五、一六日位)と推定される。」との記載があり、吉村鑑定医は当審公判で、要旨、「死後体に発現している腐敗性変化をもとに死後経過時間を推定する場合、約半月くらいの経過の場合には前後三日ぐらいの幅をとって推定する。本件の被害者が何月何日に死亡したという推定は困難である。」と証言している。また、吉村鑑定医作成の四月五日付け死体検案書(謄本、当審提出)の発病年月日、死亡年月日時分の欄には、いずれも昭和五七年三月二〇日頃(推定)」との記載があり、これらの関係証拠によれば、弁護人指摘のように、被害者の死亡ひいては本件殺害の日については必ずしも客観的証拠があるわけではなく、公訴事実記載のように三月一九日午後三時ころと断定することは問題が残るようでもある。しかし、この点については、被害者が丸安食堂で取った昼食のメニューとその死体の胃内の残留物とがほとんど一致し(なお、死体解剖の結果によれば、胃内から肉片が発見されているが、被害者は右昼食の際マカロニサラダをおかずに食べており、丸安食堂の経営者のVの原審第三回公判証言によれば、その中にはプレスハムの薄切り二枚がまるのまま入っており、検察事務官作成の昭和六三年一月三〇日付け捜査報告書添付資料によれば、プレスハムは肉塊を結着させて製造されるものである事実が認められ、消化の過程でその結着が解けたものと認められ、ここでも両者の一致が見られる。)、後にも検討するように、被害者は三月一九日昼過ぎ被告人と一緒に西成区内の丸安食堂を出て以後、同区内において被害者を目撃した者はいないと認められる。同日午後三時には当人にとって極めて大切なけん玉の練習があったのに出席しておらず、それに同人が勝手に欠席するとは考えられず、当日被害者の身に何らかの変事が発生したと認められる上、本件は関係証拠に照らして身代金を目的とした誘拐、殺人事件とはいえず、現場近くの被害者の衣類等の投棄状況などからして、犯人が被害者を一日以上他所に監禁した後殺害したとみる余地はない。したがって、被害者は行方不明になった三月一九日午後殺害されたと認めるのが相当である。これが前記解剖結果とも矛盾しないことも明らかである。また、うつ伏せになっていた被害者の死体の胸部付近の地上熊笹の葉には多量の血液が付着し、死体発見現場付近で凶器と見られる木製鞘が遺留されており、更に付近から被害者の衣類あるいは生前の持物多数が発見され、証拠上他所からその現場に死体を移動してきたような形跡は一切窺えない。
したがって、被害者は犯人によって同所で殺害され、ほぼ殺害当時の姿勢でそこに半月余りにわたって放置されていたと推認できる。そこで、前示死体下部に位置していた被害者の陰茎を含む外陰部の欠損は、その損傷箇所から見て野犬等に傷つけられたとはみられず、犯人の手によるものと認めざるを得ない。さらに、被害者は前示のとおり、単独で同所に行ったとはみられず、しかも、同人が任意に見知らぬ人物について同所に来たとも思われず、死体を全裸に近い状態にしてその衣類等を隠すようにして池等に投棄している事実からは、犯人が被害者と親しい人物か少なくとも死体の身元が明らかになることによって困る人物が犯人であると認められる。そこで、本件における争点は、以上の前提のもとに犯人が被告人であるか否かにある。被害者殺害時の目撃者は存在せず、その直接証拠としては被告人の捜査段階の自白調書があるだけであり、右自白調書の任意性、信用性の有無が重要な検討課題であることはいうまでもない。しかし、これとは独立して前示のような多数の客観的証拠、情況証拠など(以下「情況証拠等」という。)も存在し、さらに、被告人は公判で強く否定するものの三月一九日午後同人が本件被害者らしき子供を連れて現場近くを歩いていたのを目撃したとの供述証拠も存在している。また、当審に至って重要な証拠も出てきており(起訴後大阪拘置所への移監時における被告人の言動及び被告人の犯行動機等に関する証拠)、これらの証拠についても十分検討する必要がある。
そこで、以下においては、自白の検討をさて置き、情況証拠等を検討してその証拠価値を見定め、その後にそれと対比しながら被告人の自白調書の任意性、信用性を考察し、最後にこれらを総合して原判決の事実認定の当否につき結論を下すことにする。
二情況証拠等の検討
本項では、これまでに認定した事実を前提にしながら、被告人の自白とは独立した死体発見現場及びその付近から発見された者、被告人から押収した物及び前示の目撃証拠などについて掘り下げて検討し、それらの証拠価値を考察し、最後にこれら情況証拠等を総合して、自白の有無にかかわらずどの程度被告人に本件犯行の嫌疑が認められるかについて検討する。
1 現場遺留の木製鞘について
前認定のとおり、本件鞘は死体の近くに遺留されていたものであり、その中に収まる切出しナイフであれば本件凶器として矛盾せず、しかも、現場遺留の状況、表面に煤様のものが付着し、現場付近から発見された被害者の衣類の一部に焼損部が認められることなどからすると、犯人は被害者の身元が判明するのを恐れて証拠物を焼き捨てようとしたものとみられ、本件鞘も犯人がいったんは焼き捨てようとしたものであり、これが本件凶器の鞘であることは、ほぼ間違いないものと思われる。
そして、関係証拠特に原審第四四回公判における被告人の供述、同二一回公判における証人W1の証言、当審における証人福田公郎及び同高橋重文の各証言並びに押収してある木製鞘一本(<押収番号略>)及び切出しナイフ一本(<押収番号略>)によれば、多くは原判決も認定しているように、被告人は、三月二日、西成区鶴見橋<番地略>W1計量店で、現場に遺留されていた木製鞘と同種同型の鞘がついている切出しナイフを購入している事実が認められ、しかも、この切出しナイフは、被害者の解剖所見からみて、その刺創の成傷器として推定されるものと符合する。もっとも、被告人は、原審第二二回公判で検察官から、<押収番号略>の切出しナイフ(これは捜査官がW1計量店から被告人が先に購入した切出しナイフと同種同型を買ってきたものである。)を示されて、見覚えがないと答え、同第五一回公判では、切出しナイフを買った事実はあるが、法廷で見せられたナイフは全然違います、と供述する一方、自分で買ってきたナイフは一日しか持っていなかったので、はっきり覚えていない、先に法廷で見せられた時は、自分の買ってきたナイフでないから見覚えがないと答えたんですと、少しそれまでと異なる供述をしている。当審第一一回公判では、取調べの中で現場に落ちていた鞘を見せてもらったが、自分が買った切出しナイフの鞘より現場に落ちていたという鞘の方が大きいように思えた、色も現場に落ちていた鞘の方が黒ずんでいたように思う旨供述した。しかし、これらの被告人の弁解は前掲証拠に照らして直ちに信用できない。
次に、被告人が購入した右切出しナイフを三月一九日当時所持していたかどうかについて検討する。前認定のとおり、被告人は喧嘩をして三月八日から同月一八日まで西成区花園北<番地略>所在の□□病院に入院したが、同病院の警備員であったBは、原審第四九回公判で、被告人が入院した際、<押収番号略>の切出しナイフと類似のナイフを被告人から預かり、退院するときに返還した旨証言している。他方、当時同病院で患者の入退院の事務の仕事をしていたHは、原審第三八回公判で、被告人から入院時刃物を預かった事実は認めるものの、その刃物は、切出しナイフのようなありふれたものではなく、三〇センチメートル位あるドスのようなもので、木製の鞘は付いていたが、鞘のままでも、その鞘を抜いて見たところでも、<押収番号略>の切出しナイフとは明らかに異なると証言している。そこで、両者の証言の信用性を検討してみる必要がある。B証言の要旨は、「昭和五七年二月ころから三、四か月□□病院に警備員として勤務していたが、同病院はほとんどの患者が酔っぱってくる病院で行き倒れのような患者が多く、自分は暴れて医者や看護婦の手におえない患者を押さえつけたりして医者に診察をさせるような仕事をしていた。患者の持物を検査して刃物類を預かるのも自分の仕事であった。自分が預かった品物は、その後事務員に引継ぎ、入院患者が退院するときはその事務員が返還するようになっていた。被告人は、救急車で来て、室内で他の患者と口論し、看護婦が自分を呼びに来たので、飛んで行って被告人を厳しく注意したので印象に残っている。入院時、職務上被告人の持物を検査したことがある。二〇〇円程度で市販されているビニールカバーの付いている紙袋を持っており、中に衣類を少々と片刃出刃、それと小さい子が使うようなスコップを持っていた。片刃出刃というのは、さきほど見せてもらったもの(注、<押収番号略>の切出しナイフ)のことで、自分の出身地の長崎の田舎でそう呼んでおり、おじいちゃんたちが網を修理する時に使っておった。普通の出刃包丁については別に包丁と呼んでいる。その刃物は被告人が持っていた紙袋の底の方にナイロン袋に包んで鞘付のまま入っていた。鞘を抜いて確かめている。自分はそれを預かって事務員さんに渡したがその事務員の名前は覚えていない。被告人が退院したときには当直明けで家に帰っていたので、その時のことは分からない。被告人は入院中一度外出したことがあるが、帰ってきたとき検査したが、その時は別に刃物を持っていなかったと思う。」というものである。H証言の要旨は、「昭和五二年三月から同五八年一一月まで、□□病院に勤務し、患者の入退院の事務係の仕事をしていた。同病院では患者が入院するとき、その手荷物を検査して、場合によっては一時預かるようにしていた。その目的は、病室内にアルコール類と刃物類の持込みを禁止するためである。被告人についても入院する時荷物を預かった記憶がある。預かったのは受付にいる人間で、自分は翌日見た。被告人はボストンバッグ一つを持っていた。それにエフが付いてあり、それを自分は病院の廊下で宿直から受け取ったと思う。中には、刃物とガードマンのヘルメット様のものが入っていた。刃物は宿直の者から本人の寝てるそばに置いてある荷物だということで受け取った。受け取った時、鞘から抜いて中身も確かめている。えらいすごいやつ(刃物)を持っているな、ということで意識がある。鞘に入ったままの状態で、長さが約三〇センチメートル弱あった。果物ナイフには大きすぎ、刀の、小刀という感じだった。手製の素人が作ったようなものではなく、きちんとしていた。工作等に使う切出しナイフは勿論知っている。<押収番号略>のナイフとは明らかに異なる。そんなものであれば、患者はほとんど持っている。被告人の顔は退院時に見ていると思う。被告人が入院途中で外出したことは知らない。また、被告人が入院中に、特に変わった行動に出たという記憶はない。」というものである。この関係で被告人の捜査段階の供述を少し検討してみると(被告人の各供述調書は後述のように、その信用性については一部に問題があるにしても、任意性は認められ、証拠能力に問題はないので、右両証言の信用性判断のためにその内容を参考にすることはできると考える。)、被告人の四月一七日付け員面調書では、「W1計量店で買った切出しナイフを護身用に持ち歩いていたが、□□病院に入院する時守衛に見つかり、その病院で保管してもらった。外出した時も包丁を持ってきたので守衛に見つかり、これらは退院するとき一緒に帰してもらった。」と供述しており、四月一九日付けの検面調書(但し、同調書は否認調書)では、「鞘付切出しナイフを三月初め鶴見橋商店街の計量店で買って持っていたが、これを□□病院に入院した際、それを警備員に見つけられ、預かられたようなことはありません。このナイフは、東京に行く際、タンスの引出しに入れたまま、西成の浮浪者に燃やしてもらいました。」となり、四月二四日付けの員面調書(八枚綴りの分)では、再び、「買った切出しナイフは、護身用に持ち歩き、□□病院に入院しているときは、病院の警備員に預けていたので、調べてもらえば分かります。」となっている。しかも、被告人の四月二八日付け検面調書によると、被告人は検察官調べの際、前記Bと取調室で対質させられた結果、「そういえば、このガードマンに切出しナイフを取り上げられたというような気持ちにもなってきましたが、未だはっきりと思い出せません。確かに取り上げられた気もするのですが、それは入院の時の検査の際ではなく、入院中私が入院患者と昔の博打の貸し借りのことで喧嘩をし、そのガードマンに仲裁に入ってもらった時に取り上げられたというように思います。」「以前、検事さんの調べで否認したとき、引っ越しの際タンスの引き出しに入れたまま燃やしてしまったように言ったのは嘘です。」との供述をしている。しかし、関係証拠を検討してみても、被告人が三月ころ切出しナイフ以外にH証人が供述する鞘付きドスのような刃物を持っていた形跡を窺うに足るものは発見できない。そもそも、被告人がそのような刃物を持っていたなら、三月二日に護身用に更に切出しナイフを買う必要がない。また、H証言はボストンバッグごと荷物を預かり、その中に刃物が入っていたというもので、何故病院で入院患者の衣類等が入っているボストンバックを預かるか疑問が残るというべきである。しかも、同人は被告人の枕元に置いてある荷物ということで預かったというもので、それでは、いったん入院患者に荷物を持ち込ませてその後で荷物を検査したことになり、不自然である。危険防止のためには、病院内に荷物を持ち込む時点で検査して事前にその持ち込みを防止するのが当然であって、同人の供述は納得し難い。一方B証言は、前記のとおり自然な内容である上、同人は、四月二八日大阪地検の取調室で被告人と直接会って、右ナイフの件につき話をしており、殊更虚偽の証言をしているようには思われない。しかも、被告人自身が□□病院に入院したとき他の患者と口論したことについては、あえて嘘をついているともみられず、この点でもB証言の記憶の正確性が裏付けられている。したがって、B証言は十分信用できるというべきである。もっとも、B証言によると、捜査段階における取調状況について、警察官から刃物の見本を示されて、似ている旨答えたというものであって、これが右の証言部分の基礎になっているのではないかともみれないではないが、同証人は刃物の見本が入手される前の四月八日既に員面調書の作成に応じていることが認められ、B証言の信用性を左右するような事情は認められない。原判決は、B証言がH証言に「対比してたやすく信じ難い面もある」と判示しているが、その理由は示されておらず、この判断は是認することができないし、このH証言によっても、被告人が三月一八日当時鞘付きの刃物を所持していた、というのである。これに対し、被告人は、この点について、原審、当審公判で「W1計量店で切出しナイフを護身用に買ったが、用がなくなり、自分がこんな刃物を持っていると使ったらいけないので、買った翌日西成の三角公園で焚火の中に放り込んで燃やした。」、また、「□□病院に入院したときは、外出して調理用の包丁を持ってきたが、それ以外には刃物は持ち込んでいない。その包丁には鞘など付いていなかった。」などと弁解しているが、その弁解は鉄製の刃物を火にくべて処分しようとするなど不自然である上、捜査段階における弁解とも異なり、B証言とは明らかに矛盾し、H証言にも反していて、信用することができない。
なお、前掲関係証拠によれば、捜査段階で被告人から、三月二日W1計量店から前記切出しナイフを購入したとの供述を得るには相当の困難があったものであって、被告人は、当初切出しナイフを買ったこと自体を否認し、その事実が出た後も買った店を容易に捜査官に教えようとせず、別の店の名前をあげ、裏付け捜査に行った捜査員を困惑させ、その後やっと、自ら図面を書いてW1計量店の場所を明らかにした事実が認められる。このような事情は、切出しナイフひいては本件鞘に関する被告人の弁解の当否を判断するに当たって無視することができない。
ところで、原判決は、切出しナイフは購入した翌日に公園で焼却したとの被告人の弁解も、その弁解内容がいささか不自然である上、捜査段階での弁解とも異なり、これを信用し難いとしながら、被告人が三月一九日当時もW1計量店で購入した切出しナイフを所持していたか否かについては、「確証を得るにいたらないが充分あると考えるべきである。ただ、右の切出しナイフは格別特徴のないごくありふれたものであって、当時被告人がそのようなナイフを所持していた蓋然性があり、その鞘が現場に落ちていた木製鞘と同種同型であるからといって、被告人と犯行とを結び付ける決め手となり得るものではなく、その結びつきを疑わせる一間接事実たるにとどまる。」と判示している。
これに対して、所論は、原判決の右鞘についての評価は余りにも片面的であり、本件鞘の持つ重要な意味を見逃していると論難し、①本件現場に遺留されていた木製鞘は、W1計量店が販売していた<押収番号略>の「本割込桜柄切出し」と称する切出しナイフの鞘と同種同型のものであること、②被告人がこの種の切出しナイフを三月二日同店から購入していること、③被告人が□□病院に入院した折、右購入した切出しナイフを同病院に預け、退院時にその返還を受けたこと、また、④W1計量店が販売していた切出しナイフは犯行現場の和泉市伯太町近辺では市販されていないこと、更には⑤犯行現場に遺留されていた鞘には煤様のものが付着し、この煤様のものの痕跡は被告人の捜査段階の自供どおりガスライターの炎であぶられて生じたものと推定されること、⑥被告人の公判廷及び捜査段階の否認供述では、常に自分がW1計量店から購入した切出しナイフについては「燃やした」という弁解があるのは、被告人の頭の中に本件犯行後、鞘を燃やしたときの状況が強く残っているからに他ならない、と主張している。
他方、弁護人は、被告人が現場に遺留されていた木製鞘と同種同型の鞘がついている切出しナイフを三月二日ころW1計量店で購入したことは争いないが、被告人の公判廷の弁解、H証言などから考えると、被告人は三月一九日ころなおこれを所持していたと認めることはできない。所論のように和泉市伯太町近辺で市販されていないからといって、これがありふれたものでないという結論を導き出すことは論理が飛躍しており、被害者は、西成区から伯太町に連れて来られたことからすると、大阪市内若しくはその近辺において市販されていれば足りる。検察官の主張する市販ルートからはその地域、本数からしても、極めて特徴のある刃物とは言い難い。また、現場から発見された鞘に煤様のものがついており、被告人が捜査段階でこれに符合する供述をしていることは捜査官による誘導の可能性が強い、と反論している。
関係証拠によれば、現場遺留の木製鞘に適合する切出しナイフが和泉市近辺では市販されていないことは事実であるが、それが本件にとってそれほど重要なものでないことは弁護人指摘のとおりであり、また、同鞘に煤様のものが付着している事実は認められるものの、それが被告人の捜査段階における供述にあるようにガスライターの炎によって付けられたとの証明は、微量で判定困難という理由ではあるが、得られていない。しかし、所論指摘の①ないし③の事実は認めざるを得ないのであって、被告人の前示弁解が信用できない以上、被告人が本件鞘と少なくとも同種同型の鞘付き切出しナイフを三月一九日当時所持していたと認めざるを得ない。そして、これだけで本件立証の「決め手」とまではいえないにしても、所論指摘のとおり、被告人は被害者が殺害された当時その現場に遺留されていた本件鞘の付いた切出しナイフを所持し、それが本件犯行に使用された疑いは濃いといわざるを得ない。
2 現場に遺留されていただ液付着のちり紙について
前記のごとく、被害者の死体付近から丸めたちり紙二個が発見され、前示のような発見時の状況などからみて、このちり紙二個は犯人が遺留した疑いが濃い。また、被告人の取調べ途中で捜査官が、被告人においてやたらとせきをし、たん様のものをちり紙に取っているのに気付き、そのちり紙の任意提出を受け、これらを鑑定の結果いずれのちり紙からも口腔に由来する扁平上皮細胞を検出、気管支及び気管支粘膜上皮細胞に由来する胚細胞は発見されず、これらのちり紙に付着している粘液はいずれもだ液であり、その血液型はB分泌型と判明した。
ところで、前認定にもあるように、被告人は小さいころからトウレット症候群に罹患し、その症状として種々のチック症状があり、現在でも軽度の運動チックと奇異な印象を与える鼻を鳴らすチックや鼻をかむチックが見られる。
そして、原審第一五回公判における証人木村重雄の証言、同人作成の鑑定書、証人Dに対する原裁判所の尋問調書、当審証人福田登及び同福田公郎の各証言、同福田公郎作成の鑑定書、大阪府警科学捜査研究所次長小林通男作成の報告書(当審提出)及び司法警察員長谷川史郎作成の捜査報告書(当審提出)並びに押収してあるちり紙を丸めたもの二個(<押収番号略>)、ちり紙若干(<押収番号略>)及び同じくちり紙若干(但し、たん様のもの付着)(<押収番号略>)によれば、次の事実が認められる。
すなわち、B分泌型という血液型は、人口一〇〇人中一六、七人という分布率であること、現場遺留のちり紙は数枚のちり紙を重ねて折ったものと認められ、被告人は日頃から余り上等でない灰色がかったちり紙を束で買い、それを何枚か重ね四つ折りにしてポケットに入れ、そこにやたらとたん、つば様のものをはき、外出する時もこれらを道路などに直接はかず、ちり紙にはいて取り、同じちり紙を数度使ってこれを放棄するといった習癖があること、また、たん、つばをはいたちり紙を屋外で放棄していた事実も認められ(この点はDに対する原裁判所の尋問調書)、その状況は、現場遺留のちり紙の特徴と極めてよく符合している。
原判決は、これらの事実に対して、血液型が一致するといっても共にB分泌型というだけで、その同一性の確度は高くなく、また、被告人は公判廷でも頻繁にせき払いをしてだ液等をちり紙にはき出すというかなり特徴的な行動を示しているが、特徴的といっても、せき払いをしてちり紙にだ液等をはく行動自体は、特に愛煙家などに見られる行動でさほど特異な行動とは考えられない、と判示している。
これに対して、所論は、原判決の指摘するようなせき払いをしてはちり紙にだ液等をはく行動自体は、さほど特異な行動とは考えられないかもしれないが、家の中、あるいは街の中ならいざ知らず、本件現場のような人目のない松林の中で、だ液をわざわざちり紙にはいた上、そのちり紙を捨てるというのは極めて特異な行動であって、被告人の習癖から見て、現場でそのような動作が無意識のうちに出た結果であると考察するのが自然である。そして、B分泌型の血液型の分布率、現場遺留のちり紙の存在、ちり紙の形状並びに被告人の特異な習癖等を総合して勘案すると、本件犯行時被告人が現場にいて犯行に及んだものであることは容易に推認できる、と主張している。
他方、弁護人は、B分泌の血液型の分布率はあまりに漠然とした数字で、この数字をもって、現場に遺留されていたちり紙付着のだ液が被告人がはいた蓋然性が高いと考えるのは論理的でなく、また、現場は三月一九日までの間に多くの降雨があったことが明らかになっており、遺留ちり紙が原始的にどのような状態であったかも明確でなく、また、せき払いしてちり紙にだ液などをはく行為自体は何ら特異な行動でない、と反論している。
しかし、前認定のようにちり紙付着の液状のものの鑑定結果、その使用形態と被告人の習癖などを総合すると、所論のとおり、本件証拠物は犯行当時被告人がその現場にいた事実を推認させる上で無視できないものといえる。
なお、原判決は言及していないのであるが、前示のとおり被告人から任意提出されたちり紙と現場に遺留されていたちり紙との間には質的に一定の類似性が認められる。もっとも、前掲福田公郎作成の鑑定書によれば、右ちり紙間には類似性は認められるものの、異同については明言し難いとされており、また、右福田公郎は当審で、両者は同一ではないと感じられた旨証言している。被告人の四月二五日付け員面調書では、「私が三月一九日ころ使っていたちり紙は本年二月末ころ大阪市西成区萩之茶屋<番地略>主婦の店安富満寿美方で買ったものであるが、その店で買ったちり紙は東京に行ったころには持っていたが、今はありません。私は四月二〇日現在持っているちり紙若干とそのちり紙にたんを付けたもの若干を提出しておりますが、このちり紙は本年四月初めころ平塚市のT工務店で働くようになったころ、その近くにあるマーケットの近くにある店で買ったものと思う。」旨の供述内容が記載され、これは四月二〇日任意提出されたちり紙に関する説明とみられる。他方、被告人の四月二六日付け員面調書では「ちり紙については本年二月末ころ主婦の店で買ったちり紙が私のポケットに残っていましたから、警察に提出していますので、一度比較して調べてもらうようお願いします。」旨の供述内容になっており、これは四月二五日任意提出分に関する説明とみられる。ところが、被告人は当審第一一回公判では、この点について、「自分がせきをしたり鼻をかんだりするのに使っていたちり紙は、昭和五七年当時二、三〇〇円で束で買っていた、浅草紙と昔言ったあまりいい紙でないものです。三月当時使っていたちり紙は、少し残っていたので東京に持って行ったが、逮捕されたときにはもうなくなっており、新しく東京で買った。」旨供述している。以上のとおり、捜査段階で被告人が警察官に任意提出したちり紙が三月当時使用していたちり紙の残りか、上京後新たに購入したものか被告人の供述は一貫していない。しかし、一般にちり紙の使い方からみて、その入手先や残り方は多様であって、これを使用する者の認識や記憶にも限度があることはいうまでもない。現場遺留のちり紙と被告人が捜査官に任意提出したちり紙が質の面で完全に同一でないとしても、その現場遺留が被告人によって投棄された可能性を排除するものではないといえる。
3 三月一九日ころ伯太町において被告人と被害者を目撃した旨の供述、又は子供連れの被告人から一〇〇円貰った旨のFの供述の信用性について
前示のとおり本件犯行当日である三月一九日ころの午後、被告人が被害者と思われる児童を連れていたのを目撃したとの証人が何人か存在している。その信用性ないし証拠価値について検討する。
(一) Cの供述の信用性
C(以下「C」という。)は、当時、和泉市伯太町<番地略>に居住し、同所でサンケイ新聞の販売店を営む夫を手伝って、時々店に出ていたものである。Cに対する原裁判所の昭和六三年一月七日付け証人尋問調書によれば、「被告人はよく新聞を買いに来ていて見覚えがある。一度だけ子供を連れて来たのを見た。隣のJ牛乳販売店で牛乳か何かを飲んでいた。子供は小学校一、二年生位で丸坊主で髪が伸びていた。顔は覚えていない。警察に届け出た四月七日の時点で一か月も二か月も経っていなかった。」旨供述し、同人の四月二二日付け検面調書では、「被告人はよく新聞を買いに来ていたので知っている。警察に話をした四月七日の時点で二、三週間位来ていないという記憶であった。一度だけ子供を連れて新聞を買いに来た。学校のある平日、三月二一、二二の連休前、三月二〇日前ころとは言えるがそれ以上は思い出せない。肌寒い日だった。被告人が新聞を買いに来たのは、この子連れの日が最後だったように思うが、断言できない。時間は午後二時過ぎにくる夕刊のまだ来ていないときで、午前か午後かは記憶になく、何とも申しあげられない。子供は小学校一、二年生位、丸刈りの髪が伸びていた。上衣の前をきちんと止めずに開いたままのような格好であったのが記憶に残っている。警察でも何枚かの子供の写真を見せてもらったが、この子だと断言できなかった。『おっちゃん、その子孫かい。』と声をかけると、『違う。近所の子だ。可愛いやろ。』と言っていた。新聞を買った後、隣のJ牛乳販売店に行き、二人で牛乳を一本ずつ飲んでいた。」などとなっている。これに対して、被告人は原審、当審公判で「Cの新聞販売店へ子供を連れて行ったのは、まだ△△荘に住んでいた昭和五七年二月半ばころ一度だけある。連れて行ったのは△△荘の近所のIという当時数えの九歳位の子供で、身長は法廷の証言台位、坊ちゃん刈り、顔が丸顔で殺されたA君とよく似ている。」旨弁解し、原審第五二回公判で、「Iちゃんを連れて行ったのは、三時半か四時ころ、ドッチボールやった後、汗ながした後・・・・」と供述している。
原判決は、Cは被告人が連れていたという子供の顔を記憶しておらず、その時期が三月二〇日前ころと言うのも「極めて漠然とした印象にすぎず、結び付ける具体的な根拠のあるものではないのであって、右Cの証言又は供述は、これをもって被告人が子供を連れてC方へ新聞を買いに来たのは、被告人が伯太町に住んでいた二月中のことではなく、三月一九日ころとまでは言えないまでも被告人が西成に引っ越した後であり、連れていたのは被害者であるとは断ずるに足るものではない。」と判示している。
確かに、Cの証言、供述については慎重な検討を要する。Cは、四月七日の読売新聞の朝刊に被告人の顔写真が載っており、それを見て警察に行ったと証言しているところ、司法警察員作成の「誘拐殺人事件の新聞記事のコピーについて」と題する捜査報告書添付の右新聞記事のコピーによれば、「西成の誘拐、A君殺しは作業員、凶器の指紋が一致、断定」の見出しのもとに、被告人の顔写真入りで右関連記事が掲載されており、その内容を読むと、「現場付近の林の中から、凶器とみられる短刀のさやと血まみれになったA君の肌着を発見、さやについていた指紋がA君にビー玉を買い与えた・・・・甲(58)(・・・・)のものと一致したことから甲を犯人と断定した。…」となっている。しかし、その記事のうち短刀の鞘についていた指紋が被告人の指紋と一致したなどの記事は全くの誤報である。この誤報を含んだ新聞記事を見てCは犯人特定の有力な情報を警察に提供するようになったのであり、この事実は見逃すことができない。同人の証言は、検察官に対する供述に比べて内容があいまいであったり、異なったりしている。同人は前記の住所からその後転居しているが、その転居の日についても供述調書では四月一八日、証言では四月八日になっている。関係証拠を検討すると、事実は四月一八日と考えられる。また、供述調書では、被告人は当日Cの店で新聞を買って隣のJ牛乳店に行って連れていた子供と一緒に牛乳か何かを飲んだとなっているが、証言では、被告人が自分の店に来たとは行っておらず、自分が隣に行っているときそこに被告人が子供を連れて来たという内容になっている。しかも、記録によれば、Cは原審で証人として召喚を受けながら、不出頭を繰り返し、終結間近の昭和六三年一月七日に大阪地方裁判所堺支部の庁舎内でやっと期日外の証人尋問が実施されている。これらの点からも同人の各供述の信用性については慎重な吟味が必要である。しかし、同人は裁判所への出頭を渋った事由については、その後怖くなったからである、と証言している。また、Cから情報を得て、改めてCを調べて調書を作成した増田義則警察官は当審で、この間の事情について、Cは四月七日に警察に来たときには、新聞を見て、自分も子供を持つ身で、子供のためにも事件を早く解決して貰おうと思って来た旨供述し、調書を取らせてくれと言ったら、後々裁判所に出廷とか面倒なことがあるので、極力勘弁して欲しいということだったが、説得して、翌日調書を作成した旨証言している。Cが裁判所に出頭しなかった理由もそれなりに理解できる。しかも、関係証拠上明らかなように、同人は普通の家庭の主婦で被告人とは何らの利害関係もなく、同人は前記新聞の記事を見て、自発的に夫の反対を押し切って警察に情報を提供したものであって、その供述をもたらした経過に照らしても、特に作為的なものや軽薄な態度は窺えない。同人の証言時の記憶は事件発生後六年近くが経過していて相当薄れており、混乱もあるようであり、同人もこの事実を認めている。しかし、前に警察官などには記憶のとおり話した旨証言している。したがって、その供述調書は十分信用でき、証拠価値も高いと認められる。確かに、被告人が右子供を連れてきた日については右Cの証言だけから犯行当日の三月一九日と特定するには慎重を要する。しかし、犯行当日の三月一九日は三月二一、二二日の連休前で、通常では学校のある金曜日で(Cにも通学中の子がいる。)、気候的にも三月とはいえ肌寒い一日であったこと(大阪管区気象台長各作成の捜査関係事項照会回答書及び昭和六二年一一月一六日付け照会回答書によれば、大阪市内の観測結果ではあるが、当日が特にその前後の日に較べて朝方、昼ころの気温が低い事実が認められる。)についてはCの証言と符合する。なお、この点は次のJ証言と併せて更に検討するが、Cが四月七日の時点で、被告人の弁解する二月半ばのことを三月一九日ころの出来事と取り違えて申し出るとは考えにくい。そして、被害者は小学校一年生でその死体の状況を見ると頭は丸刈りでかなり髪が伸びている事実が窺える。後述するように、本件が計画的犯行ではなく現場におけるとっさの殺意であるとすれば、この段階で被告人が同行していた被害者を連れて同所に現れることは十分考えられる。被告人の前記弁解によると、子供を連れてCの新聞販売店に行ったのは一回だけで、五七年の二月ころで、△△荘のIちゃんという子で時間は午後三時半か四時ころであったというもので、それでは時間がCの店で夕刊が届けられた後ということになる上、その時間であれば、既に子供達は学校から帰ってきている時間ともみられ、Cに学校のある平日という印象が残っているのも不自然である。被告人はIちゃんの人物像についてことさら被害者に類似させるよう供述している疑いも強く、被告人の弁解は直ちに信用し難い。また、後に自白の信用性の検討の際述べるが、被告人の捜査段階の自白調書では被害者を連れてCの新聞販売店に行ったことや、更には三月一九日Cと会ったことさえ終始認めていない。他の点では捜査官の拷問にあって虚偽の自白をしたなどと言って種々の自白をしながら頑としてこの点を否認し続けていることにはかえって不自然さも感じられ、被告人自身Cの証言の重大性を認識していたのではないかとも考えられる。
(二) Jの供述の信用性
Cの供述の中に出てくるJ牛乳店の店主の妻J(以下「J」という。)は、原審第二五回公判で、要旨「四月八日ころCから『あんたのとこで牛乳飲んだ子が殺された、自分は和泉署へ行って来た、ひょっとしたら和泉署から来やはるかもしれない。』といった内容の話を聞いた。自分が見た男の子は、小学校低学年位で、髪が伸びていた、学校のある日で寒い時期なのに半ズボンをはいていた、うちらいなかやから長ズボンをみんなはく、それが半ズボンやから覚えてるんです。牛乳を飲んでいた、その子はショーケースを見て、他の何かを欲しそうにしていた、それでも牛乳を飲んだので寒いのに好きやなあと思った。Cさんからその子が殺されたと聞いた。当時警察に行ったのは、その子がかわいそうという気持ちがあって、行ったと思う。調べられた時は、自分のわかったことしか言っていない、和泉署で写真見してもらったが、それがどんな写真だったかわからない。検察庁で被告人と面通ししたが、わからん、わからんと言ったことだけは覚えてる。お金をだれが払ったということも覚えていない。ただ、その子が小さかったので小学校低学年で、しらこい感じの子やなという感じがした記憶は残っている、しらこいというのは、うちらのいなかのほうでわるさすることをいう。また、ショーケースの中の品物を見てて、なんかほしそうなものがあったのに、それとは違った牛乳を飲んだと、おかしいのに、それが印象にある。」と証言している。また、同人の四月二一日付け検面調書では、「五、六〇歳位の男が小学校二、三年と思われる男の子を連れて来た、自分は三月二一日知り合いの人と新東洋に行っており、その前日ころであったことははっきりしている。また、早朝牛乳配達のない日だったので奇数日で肌寒い日であった。子供は水色のジャンパー様のものを着て半ズボンをはいていた。坊主刈りの髪は伸びていた風であった。男の子は当初ヨーグルトやプリン、ジュース等の入ったショーケースをもの欲しそうに見ていたが、結局牛乳を飲んだ、ごくごく飲んでいた。今は子供の顔も連れていた男の顔も覚えていない、被告人と面通しさせられたがやはりその時の男かどうか分からない。写真を見せられても、『この人やったかな』位のことしか言えない。警察で四月七日付けの読売新聞の朝刊を見せてもらったときは、この男なら見覚えがある、最近見たことがある、と思いました。顔付きなどはっきり覚えていないので写真を見せられても、『この人やったかな』位のことしか言えない、面通しで被告人にあっても同様の印象しかない、直接顔を見ても『あの人やったかな』という以上には説明できない。」となっている。Jの証言及び供述態度には慎重さが窺える。それにもかかわらず、本件被害者の特徴をよく表現している。同人は、被害者とその時を除くと一面識もないはずである。それなのに、その子は小学校低学年位で、しらこい感じの子であり、前記のように髪を伸ばしていた、被害時水色のジャンパーを着て半ズボンをはいていたなどというのであって、事件当時の被害者自身を言い当てている感がする。写真の撮影年月日は明らかでないが、司法警察員作成の「未帰宅児童手配用の写真入手について」と題する捜査報告書添付の被害者の写真から受ける印象とも符合する。しかも、当審で証拠調べしたA2の四月一一日付け員面調書(但し、その二ないし四項に限る。)には、被害者はもともと牛乳が嫌いで、小さい頃から牛乳を飲むとすぐ戻していたが、学校にあがってから先生に言われたのか、この頃はカレーライスに牛乳をかけやっと食べられるようになったとの内容の供述が記載されている。前記のとおり、被害者は丸安食堂で被告人からは好きなものをとるように言われながら、結局遠慮して被告人が選んだものを食べている、J牛乳店で、子供は何か他の物を欲しそうであったのに、牛乳を飲んだのが印象的であった、とJが証言しているのも、その子が本件被害者であるとすると十分納得できる行動、仕種である。
なお、前掲原審第一七回公判における吉村鑑定医の証言によると、被害者の死体を解剖した同医師は、「解剖所見からみて被害者は殺される直前に多量の乳製品を取ったとは考えられない、牛乳をコップ一杯も飲んでいれば胃の内容物の色がもう少し白っぽくなる。」と述べており、また、前示のとおり被害者の母親は、被害者は牛乳が相当嫌いである事実を証言しており、これらの事実から前記C、Jが言う被告人が連れて来て牛乳を飲んだ子供が被害者とは異なる疑いが生ずる。しかし、吉村鑑定医を当審で再度証人尋問したところによると、「本件で生前に乳製品を摂ったかどうかは胃の内容物にいわゆる腐敗汁が混ざってきており、その識別は解剖時困難であった。はっきり分からない。胃の中に存在する液状物については自分としては肉眼で見ただけでその資料を採ってその成分について物体検査をしたわけでもない。乳製品といってもいろいろ種類があり、人工乳のようなものを嚥下した場合には乳汁塊となって、一種の蛋白質と脂肪が固まって胃の中に存在するので、死後変化が相当進んでも判断できるが、牛乳のように非常に薄いというか、牛乳蛋白も脂肪も非常に少ない乳製品の場合には、そういったいわゆる乳汁塊を作るといったことはないので、新しいときは確実に判断できるが、このように腐敗性変化が強い場合には確実な判断はし難い。しかし、断定はできないが、二〇〇CCもの牛乳を飲んでいるのであれば、もう少し胃の内容物の色が白っぽくなってもいいように思う。確実な回答はできないが、おそらく飲んでいなかったであろうという認識である。」旨証言するに至った。本件では、被害者が飲んだ牛乳の量も特定されておらず(なお、牛乳瓶一本の量を二〇〇CCと特定しているのは明らかな誤りであって、通常一八〇CCである。)、吉村鑑定医の証言だけから被害者が殺害数時間前に牛乳を摂っていなかったと断定することはできない。Jの検面調書の中に、子供は牛乳をごくごく飲んでいた旨の供述記載があり、あたかも、子供は牛乳を好きであるとも受け取れる内容である。しかし、戸次警部は当審第三回公判で、(警察段階でJはその二人とも牛乳を飲んだかどうか分からない。警察調書ではごくんごくんとはなっていなかった。」旨証言している。本件の起訴検察官である大堅敢検察官(以下「大堅検察官」という。)は当審で、「警察段階では、牛乳かどうかわからないというものであったが、私の段階でどうだろうと聞いたところ、いささか自信ありげにいったので、そのとおり取った。」と証言している。いずれにしてもJの検面調書のごくごく飲んでいたとの供述は、単に飲んだ時の印象を供述しているにすぎず、好きでもない牛乳を被告人に買ってもらったので拒むこともできず、あるいは、後に検討するように、けん玉の練習時間が迫っていることが気になり、帰りを急いで一気に飲んだとも考えられ、その様子から直ちにその時の子供が普段から牛乳が好きであるとまで認定するのは適当でないといえる。したがって、これらの事実もJの供述の信用性を減殺するとまではいえない。
被告人の原審、当審公判におけるこの点の弁解は、「J牛乳店に子供を連れて言ったのも昭和五七年二月中ころで、連れて行ったのは△△荘で隣に住んでいたFで、新聞店に行ったのとは別の日である」旨弁解している。しかし、関係証拠によれば、被告人の言うFは、昭和五三年一二月二一日生まれで当時三歳であることから、Jの見た子供とは明らかに異なるといえる。しかも、前記Cの供述によると被告人は同人が目撃した日同人の新聞販売店と隣のJの牛乳販売店を順に訪れたというものであって、被告人の弁解とは明らかに矛盾するものである。また、CとJの供述を合わせると、被告人が子供を連れて両者の店に来たのは三月一九日ころとかなり正確に絞られるといえる。また、被告人は三月一九日被害者を連れて牛乳店を訪れた事実も、捜査段階で、四月一三日付けの員面調書で自白するだけでその他には頑として否定しており、これまたCの場合と同じようにかえって不自然に感じられる点である。
なお、原判決は、Jの証言や供述について、Jの見たのはFでないといえるが、日にちの特定が不十分である上、もともとJはこの二人連れを特別の関心を持って見ていたわけではなく、日常的な商売の一こまとして、Cに言われて思い起こした記憶にすぎず、これまた三月二一日前後ころ被告人と被害者がJ方で牛乳を飲んだと認めるに足る証拠ということはできない、と判示している。
これに対して、所論は、Jは事件後間もない四月八日、Cから特に言われ、殺された男の子のことを思い出したもので、その時期についても具体的根拠を挙げてはっきり供述しており、子供の服装、人相等の特徴についても極めて具体的、詳細に供述しているのであって、それにもかかわらず、これらの供述をとらえて、日常的な商売の一こまにすぎないなどと単純に決めつけるのは相当でない、と主張している。
以上の次第で、当裁判所は、C、Jの各証言、供述は両者相まって、本件犯行当日のころ、被告人が被害者を連れてCの新聞販売店及びJの牛乳販売店を尋ねた事実を認めさせる上で十分信用できるものといえる。
(三) F1がその子Fから聞いた内容について
F1は前記のとおり被告人が△△荘に住んでいたころ、その隣室に居住していたものであるが、同人は原審第二三回公判において、要旨「被告人が△△荘から引っ越した後でテレビでプロレスの中継があったので金曜日と思うが、△△荘前の広場で遊んでいたFが手に一〇〇円玉を握っていたので尋ねたところ、『隣のおっちゃんにもらった。』と言っていた。Fの言う『隣のおっちゃん』というのは被告人のことである。」旨証言している。もっとも、その時期については、一応右のように供述しながら、他方昭和五七年の正月より前か後かと問われると、その都度前と答えたり後と答えたりしているのであって、甚だあいまいであるといわざるを得ないが、この点に関連して△△荘の管理人のDが原審の期日外証人尋問で、「娘が二月七日に婚礼してその翌月和泉府中のイズミヤかニチイに買物に行っての帰りで三月二一日の二、三日前、一七、一八、一九日ころ、△△荘近くの広場まで来ると、Kいう子が走って来て『隣のおっちゃんに一〇〇円もらった。』と話した、私にしたら西成へ行って初めて来たことになり、このおっちゃんはいつでも誰かかれか連れて来ていたので、『一人で来たんか。』と尋ねたら、その子は『コウモ』と言っていた、『コウモ』というのは何かと尋ねたら『オードゴの子』すなわち男の子と答えた。」旨供述している。この中Dの証言は、当時使用していた手帳の記載を根拠にしたもので、特に月日の点について大きな誤りはないと思われる。また、被告人は前記のとおり死亡した甲1の遺産分配の話しのもつれなどから二月二七日△△荘を出て行ったが、三月一九日ころには分配を受けた遺産もほとんど使い果たし、被告人の性格から考えて、同人が再度遺産分配の話を蒸し返しにDを訪ねようとすることは十分考えられる。被告人が、三月一九日急に天王寺駅から、往復料金まで使ってわずかな残業手当を貰いに伯太町のS警備に行ったというのもいかにも不自然であって(なお、S警備には残業手当のほか、勤務中の電話代の立替分でもらい分があったが、その電話代は当日S警備に行って初めて分かった、と被告人は原審公判で供述している。)、被告人が当日伯太町に行く気になったのは、むしろ、△△荘のDを訪ねることに主たる目的があったのではないかとも考えられる。被告人は、原審公判で、S警備で再び雇ってもらう希望を持っていた旨供述し、その目的もあって当日S警備を訪ねたかのような供述をしているが、S警備の従業員で管制の仕事をしているY(以下「Y」という。)は、原審第二回公判で、被告人が入院中にもう一度S警備で働きたいという趣旨で電話をかけてきたので、被告人が来た時、当然その話が出るだろうと思っていたが、一九日も二一日も被告人からそんな話を聞いた覚えがない旨証言している。
原判決は、この点についても、F1の証言は、Fが被告人から金をもらったとする時期があいまいであるだけでなく、その話自体が当時三歳の幼児からの伝聞であって、信用性が低いものである上、「隣のおっちゃん」が被告人のことを指すというのも同証人の推測にすぎず、同証人が見た一〇〇円玉が被告人の与えたものであると認定する証拠としては甚だ心もとないものといわざるを得ない、と判示している。
しかし、所論も言うように、Fが母親に語った内容は格別他から示唆されたり誘導されたものではなく、子供なるが故にかえって憶測をまじえず素直に語っているとみられ、また、Fのいう「隣のおっちゃん」の意味するところも、母親であるF1がもっとも理解する立場として適切な人物といえる。また、Fが一〇〇円を母親が知らない間に誰かからもらっていたという事実は否定しがたく、確かにF1は、Fが一〇〇円を持っていた時期についてあいまいな証言をしているが、その時期について、証言の中で「Dさんが買物に行って、荷物が多いときがありますから、私がアパートの入口まで…」と言いかけており、それはDの買物をしての帰りという話と符合している。この点に関する被告人の捜査段階における供述をみると、初めて犯行を自白した四月一二日付け員面調書から四月二〇日付け員面調書までの自白のなかで、△△荘に立ち寄ったが留守であった旨、特に、四月一三日付け員面調書ではFに一〇〇円やった旨まで供述しているが、四月二一日以降は犯行自体は認めながら△△荘に立ち寄ったことを否定していて、Cの新聞販売店やJの牛乳販売店の場合と同様不自然の感を免れない。したがって、F1の前記証言とDの右証言とは相まって、被告人が三月一九日(金曜日)に子供を連れて△△荘近くに現れた事実を認めさせる上で、信用できるものといえる。
(四) S警備に被告人が子供を同行していない事実の検討
ところで、原判決は、「三月一九日S警備には被告人が一人で現れ、その際被害者は目撃されていないのであって、被告人の自白調書記載のように、被害者を少し離れたところで待たせていたためS警備の関係者に目撃されなかったということももちろん考えられるが、子供好きの被告人が遠路同道した被害者を何故そんな所で待たせたのか。S警備に来たのが被告人一人であったと言うことは、当時被告人が被害者を同道していなかった可能性を示唆するものと見ることも可能である」と判示している。
ことは、被告人の自白調書の信用性にもかかわってくるので後に更に詳しく考察するが、ここで若干この点についても検討しておく。
被告人の自白調書では、S警備に行ったときは中には一人で入り、A君は外で待たせていた(被告人の四月一五日付け員面調書)とか、より具体的に角のポストの辺りで待たせていたのでS警備の事務所内からは見えなかったはずである(被告人の四月二一日付け検面調書)となっており、被告人は被害者をS警備の近くまで連れて行ったことを認めている。確かに、前示Y証言によれば、それまでも二、三回被告人が子供を連れて来たことはあるが、事務所内に入れたことがないというのであり、同じくS警備の従業員であったX(以下「X」という。)も原審第二回公判で、過去被告人が同行していた子供をガラス戸の外に待たしていた旨証言している。また、裁判所の検証調書(原審、当審)によれば、被害者が右ポストの陰におれば、S警備の事務所内から同人の存在を見通すことは困難である。しかし、前記のとおり本件は現場における突発的犯行とみられ、いまだ殺意も生じていない段階で被告人がS警備に行ったとすれば、何故被害者を事務所内から見えない位置に待たせていたか疑問であって、当時被告人が被害者を同道していなかったのではないかとの原判決の疑問は一応もっともである。
ところで、原審第二回公判において、三月一九日被告人がS警備を訪ねたときそこにいた同警備の従業員である前記Y及びXは、被告人が当日S警備を訪れたのは夜勤専門の長野が風呂に行くために二階の同人の部屋から下の事務所に下りてきた後で三時は過ぎていた、また、被告人が真っ青という感じで事務所に入ってきたので、お互いに「顔色悪いですね。」と話した旨それぞれ証言し、さらに、Y証人は、被告人に「おい顔色悪い、どないしたんや。」と声をかけ、病院に入っていたと聞いていたので、「いまごろ病院を抜けたらあかんぞ。」といった内容の話をしたと供述している。前認定のとおり、被告人が三月一九日西成の丸安食堂で被害者と食事をして外に出たのは午後零時一〇分か一五分ころであったことは、前掲丸安食堂の経営者Vか原審で証言しているところであって、同人は二人が店を出ていった後暇で、時計を見たらたまたま一二時をまわったくらいだったので、その時間位であるとはっきりした根拠を挙げて供述しており、ほぼ正確な時間であると思われる。もし、被告人が犯人であるとすると、そのころ被害者を連れて西成から出発し、伯太町にあるS警備に午後三時過ぎに現れたのでは時間的に遅すぎて合わないきらいがある。大堅検察官は、当審で、「当初被告人はS警備に来る前に被害者を山で殺し、その足でS警備を訪れたと考え、そのような被告人の警察官に対する自白もあったが、被告人は殺害後、信太山駅で血のついた手を洗ったと供述しており、そうすると血の付いた手のままでS警備に寄ったことになり理解し難いとして、最終的にはその逆の順序になったが、現在でもその順序はどちらか分からない。」旨証言している。被告人が信太山駅の構内の洗面所で血のついた手を洗ったという自白調書の内容は不自然である。それによると被告人は、その血のついた手のまま道を歩いて、駅で切符を買い構内に入ったことになる。前認定のとおり、現場の山池の周辺には入ったことになる。前認定のとおり、現場の山池の周辺にはルミノール及びヘモグリン各反応が陽性の箇所が何箇所かあり、その反応が即、人の血痕の存在の証明にはならないが、犯人が同所付近を動き回った可能性も否定できず、その間に殺害の痕跡を消すための処置をする可能性は十分にあったといえる。したがって、被告人が犯人とすれば、S警備に立ち寄った際、すでに被害者を殺害していた可能性も十分あり得る。もっとも、原審及び当審裁判所の各検証調書によれば、阪和線の信太山駅から犯行現場の方に向かう道筋として、J牛乳店、事件当時のC新聞販売店、S警備、犯行現場の順になっている。ただ、S警備はその道筋から若干脇道に入った位置にあるが、その距離はわずかである。また、△△荘は、これらの道筋から大きく逸れているが、歩く道によってはS警備から同所までの距離はさほどない。前認定のように、被告人は事件当日S警備に来て残業手当の残りをもらっているのは事実であり、したがって、少なくともこの日伯太町に来た目的の一つは、右残金を請求することにあったことは否定できない。そうすると、J牛乳店、C新聞販売店に立ち寄りながら、同じく△△荘に行く途中にあるS警備に立ち寄らなかったことの不自然さは残る。また、犯行後S警備に寄ったとすれば、本件のような凶行の後にわざわざ同所に立ち寄ったのか疑問が生じる。しかし、被告人はまず、△△荘に寄って、帰りにS警備に立ち寄ろうと考えることもないわけではなく、そこでDが留守であったことから林の方に行って時間を潰し、その間に本件事件が発生し、殊更被害者を当日連れていなかったことを見せつけるため、あるいは、伯太町で被告人を目撃した者が後日出現した場合に備え、伯太町に来た表向きの理由を作っておくため、犯行後S警備に寄ったことも考えられないわけではない。ところで、被告人が西成区内の丸安食堂を午後零時一〇分か一五分ころ出て、前記のとおりS警備に午後三時過ぎに現れ、午後四時ころ天王寺駅に帰った(被告人は原審第四四回公判で、当日同駅に帰りついた時間を午後四時五分前であった旨供述している。被告人がこの時間まであえて嘘を言っているとは考えにくい。)ことなどを考えると、被告人が丸安食堂を出てS警備に現れるまでの間何をしていたかの疑問が生じる。この点について、被告人は同公判では、午後二時ころ天王寺公園に行き、同所で腰の曲がった八〇歳すぎのお婆さんと会い、一緒に浪速クラブという芝居小屋に入り、一〇分か二〇分して一人だけ出てきて天王寺駅に行き信太山の方に行ったと供述しているが、その供述は、まず、被告人が丸安食堂を出た時間が午後零時一〇分か一五分ころであった事実から考えると納得できない。それからまっすぐ天王寺公園に来たとして、その時間が午後二時ころというのは不自然である(この供述は殊更信太山駅からS警備に直接行ったことにするため時間を合わせようとしている印象さえある。)また、天王寺公園で八〇歳すぎのお婆さんに会ったというアリバイ主張を含めた弁解も後に改めて検討するように採用し難い。
いずれにしても、原判決のいうように、三月一九日当日被告人がS警備に被害者を同道していないとしても、直ちに前示の新聞販売店、牛乳屋及び△△荘近くに被害者を連れて行っていないとするのは相当でない。
(五) 目撃証拠についての総括
以上によれば、原判示にもかかわらず、前記C、J及びF1の各供述は重要な価値を持つ証拠であって、これらはいずれも三月一九日被告人が被害者らしき子供を連れて犯行現場近くの伯太町に現れた事実を一致して指し示しており、これらの証拠を総合すると、被告人が当日被害者を伯太町まで連れて来ていた事実は認めざるを得ない。
4 その他の情況証拠について
(一) 現場遺留の軍手について
前認定のように、被害者の死体の近くに軍手の片方が遺留されていた。被告人は、原審公判で当時軍手を常用していたことを認めており、更に三月一九日S警備に赴いた際も、防寒着のポケットに軍手を入れていたと供述している。
しかし、原判決もいうように、現場に遺留されていた軍手は格別特徴のないものであり、しかも、同軍手には鑑定の結果小指の付け根付近にやや弱い血痕付着の疑いが持たれたのみで、人血はもちろん血痕付着の証明も得られなかった。したがって、現場にそれが遺留されていたからといって、そこに被告人と犯人との結びつきを見出すことはできない。なお、この点については次項の自白の信用性で更に検討する。
(二) 被告人の防寒上衣の右そでに被害者と同一の血液型の血が付着し、被告人の短靴の底等に人血が付着していたことについて
原判決も認めているように、被告人の防寒上衣の右そでに被害者と同一の血液型A型の血が付着し、被告人の短靴の底等に人血が付着していたという点については、確かに僅かとはいえ、他人の血液が自己の着衣に付いたり、まして靴の底に他人の血が付くなどという機会がそうそうあるものではない。しかも、犯行現場は前示のとおり熊笹等が下草として密生しており、犯行時その下を歩いた際に靴の底に流れ出た被害者の血が付着した可能性は十分考えられる。したがって、この点は特段の事情がなければ、被告人に対する嫌疑を抱かせる事実ではある。しかし、前認定のとおり、被告人は、四月一日ころの深夜上野公園で喧嘩をし、その際相手の男の頭部を一升びんで殴りつけて頭部裂傷の傷害を負わせていること、その男性の血液型もA型であった事実が認められ、被告人の着衣等に付着している血は、その時付着した可能性も否定できない。
なお、この点について被告人は原審公判において、右の喧嘩の際には着衣に血は付かなかった、と供述しているが、その供述に続いて警察官が着衣に血痕を故意に付けたものである旨述べており(関係証拠を検討しても右事実を窺わせるものは一切ない。)、必ずしも被告人の言葉どおり信用することはできない。被告人は四月二八日付け検面調書では、その時血が付いたかもしれない、と供述しており、当審では、自分は原審で上野公園での喧嘩の際は血が付かなかったと述べたが、そう思っただけで根拠があるわけではない、と供述している。したがって、被告人の原審における供述だけでは、血痕付着の程度などから見て、前記上野公園での喧嘩の際付着した可能性を否定するに足りず本件の証拠としては余り重視できない。
5 被告人のアリバイの主張及びその他の被告人の本件犯行を否定する可能性のある証拠について
(一) アリバイの主張について
被告人は原審公判で、三月一九日の行動について、丸安食堂の前で被害者と別れた後、一人で天王寺公園に行き、動物園前で、よくその付近にいる腰の曲がった八〇過ぎの老女と出会い、一緒に浪速クラブという芝居小屋に入り、一〇分か二〇分でそこを一人で出てS警備に行った、と述べ、原審弁護人はこれを被告人のアリバイと主張している。
しかし、被告人は、捜査当初犯行を否認している段階でその事実を供述していなかった。そのことについて被告人は原審で、お婆さんに迷惑がかかると思ったので話さなかった旨供述する。しかし、本件のような重大事件において、自己の潔白を証明する有力な証拠を、単に右のような事情で明らかにしないでおくなどとは考えられない。
しかも、被告人のいう老女と思われる人物であるL(明治四三年五月二〇日生)は、検察官に、「被告人に浪速クラブに連れて行ってもらったことはない。」旨供述している(同人の検面調書」。もっとも、右供述は、検察官が被告人のアリバイ主張に基づいてそれらしき人物を割り出し、四年以上も前のことを被告人の写真を示して尋ねた結果にすぎず、同女の年齢なども考慮するとその供述にそれほど重きをおくことはできない。原判示も同旨とみられる。しかし、被告人のアリバイの主張は、これを裏付けるものがない上、前示のとおり唐突の感を免れず、採用し難い。
(二) 三月一九日の被害者の足どりについて
次に前掲植松メモによると、本件捜査の初期の段階で捜査官側に、三月一九日の被害者の足どりについて被告人を犯人と考えると矛盾するような幾つかの情報が入っている経過が窺われるので、この点について検討しておく。
(1) 植松メモによると、M(当時中学二年、一四歳)は、警察による事情聴取に対し、三月一九日金曜日午後六時過ぎころ西成区の南海今宮駅を被害者が一人で歩いているのを見た旨供述している。しかし、原審第四一回公判における同女の証言によると、Mが被害者を見た日を特定したのは、同人が通っていた学習塾で社会科を勉強した金曜日であるとの理由であるが、関係証拠によると、たまたま三月一八日と一九日とは塾の時間割の変更があり、社会科を勉強したのは前日の木曜日、三月一八日である事実が認められ、同人が被害者を午後六時ころ見たというのは本件の前日である三月一八日のことであると認められる(同証言、原審第四二回公判における証人W2、同W3の各証言及び押収してある学習ノート(<押収番号略>))。
(2) 南海今宮駅前で新聞を販売していたN(大正元年一一月一九日生)は、警察の事情聴取に対して、当日午後四時ころ被害者と男女一名がそろって西の方へ行くのを見た、と供述していたが、当審における戸次治雄(第三回、第一四回各公判)の証言によれば、その後警察官が捜査したところ、Nが右状況を目撃した日は、三月一九日かどうかはっきりしない上、同女が目撃した子が被害者かどうかもあいまいである事実が認められる。
(3) その他、O(当時小学四年生)からの「三月一九日午後一時四〇分ころ被害者が五〇歳位のおっちゃんについて歩いていた、Aから『飯を食べさしてもらった』と聞いた。」旨の情報、P(当時八歳)の「当日午後六時ころ被害者と別れた」旨の情報などが前記植松メモに記載されているが、前掲戸次証言によると、この種の情報はいずれもその後の捜査で誤りであると判明したというもので、その詳細は不明であり、その裏付けはとれない状況である。
しかし、前記当審第一四回公判における戸次警部の証言並びに前掲A2の六月三日付け員面調書及び司法警察員作成の「誘拐殺人事件の新聞記事のコピーについて」と題する捜査報告書添付の各新聞のコピーなどによると、被害者はけん玉が得意で、昭和五六年一一月三日には大阪城公園で行われたけん玉の段位審査会の模様がテレビ放映された旨とその際における被害者も得意気な顔の写真を掲載した新聞もあり、これらからして被害者のけん玉に対する熱の入れようも並大抵ではなかったと認められる。そして、右戸次証人は、大阪市立○○館の小椋館長から聞いた話を含めて、「三月二六日前後に大阪市の方の主催でその大会が開かれる予定になっており、被害者は○○館の代表としてその大会に出たい気持ちを持っていたもので、その練習を三月一六日から始めており、練習は毎日三時ぐらいから当日と一七日、一八日と行われ、一六日は他の子供が一番になり、後の二日間は被害者が勝ち、事件当日の一九日も午後三時から前記○○館で練習をすることになっており、同人の弟のA3もその時間に同所に来ており、被害者に変事がなければ、その練習を休むことは考えられない。」と供述しており、この証言は十分信用できる。これによれば、被害者は三月一九日午後三時ころには意思に反して右練習には来れない状態になっていたと考えられ、当日その練習時間帯、あるいはそれ以後においても、被害者が西成にいたとか、同所で友達と遊んでいたとの目撃証言は到底信用できない。
したがって、三月一九日の午後に西成区内で被害者を見た旨の各供述は採用できず、そのころ前記伯太町で被告人が被害者を連れていた事実を認めさせる上で、支障はないといえる。
6 まとめ
以上、被告人の自白調書を離れて情況証拠等を検討した結果は、①現場に遺留されていた木製鞘、②三月一九日ころ被告人が被害者らしき児童を連れて伯太町にいたという目撃証拠はそれぞれに被告人を本件犯人と認めさせる上で相当に重要であり、③被告人を本件犯人から除外できるだけの消極証拠も見出せない。しかも、前示のとおり、被害者は三月一九日西成区内から死体発見現場の伯太町の松林内に連れて行かれて同所で殺害されたと認められ、被害者の着衣等の処理状況から見て、犯人は被害者の身元が判明すれば疑われる立場にある人物と認められるところ、被告人は被害者と日頃から親しくしており、被害者は当日昼過ぎ被告人と丸安食堂を出た後行方不明になっており、被告人は現場の地理にも明るいこと、同日午後被告人が現場から約五〇〇メートルしか離れていないS警備に現れていることは争いない事実であり、被告人には幼児又は児童を対象とする略取、誘拐の前科三件があり、極めて激昂しやすい性格を有することなど本件で相当に疑わしい点が認められ、だ液付着のちり髪についても無視できないものがあって、これらの事情を総合すれば、自白の有無に関わらず被告人には本件で被害者を殺害したことを推認させる有力な情況が備わっているといわざるを得ない。
三被告人の自白調書の任意性、信用性の検討
原判決は、結論として、捜査段階における被告人の自白に任意性は認められるが、信用性については疑問が残ると判示している。これに対し、所論は、右自白には任意性はもちろん、大筋において信用性もあると主張し、他方、弁護人らは原審から当審まで一貫して被告人の自白には信用性はもちろん任意性も全く認められないと主張しているので、以下順次検討する。
1 被告人の供述経過と自白の概要
(一) 被告人の供述経過
原判決挙示の関係各証拠並びに当審公判における被告人の供述、証人R、同U及び増田義則の各証言及びA2の六月三日付け員面調書によれば、原判決認定の事実を含め、次の事実が認められる。
(1) 被告人は、三月二〇日西成警察署で事情聴取を受けた際、一九日は昼食の後の午後一時ごろ食堂の前で被害者と別れ、その後は一人で午後四時ごろまで天王寺公園に行って旅役者の踊りを見た上、午後四時半ごろ西成区内の三角公園に行って午後五時半ごろまで博打をした後、四角公園で子供や女子大生とビー玉遊びをして、午後七時前自宅の××荘に帰った、と述べていた(被告人の三月二〇日付け員面調書以下の検面調書、員面調書は特に断らない限り被告人のものである。)。
被告人は、四月九日昼すぎ神奈川県平塚市のT工務店の作業現場から同県平塚警察署に任意同行を求められ、同署において、大阪府警から出張してきた警察官に約五時間にわたって事情聴取され、その後同署で本件の誘拐、殺人容疑で逮捕され、同日夜遅く大阪まで護送されて和泉警察署に引致、同署で留置され、翌一〇日から被疑者として本格的な取調べを受け、一一日大阪地方検察庁に送致、検察官による弁解録取、続いて大阪簡易裁判所裁判官による勾留質問を経て同日和泉警察署の留置場に勾留されたのであるが、逮捕前の平塚署での事情聴取、逮捕時の弁解録取、一〇日の警察官の取調べ、一一日の検察官による弁解録取、裁判官の勾留質問のいずれにおいても終始犯行を否認していた。ただし、一〇日の取調べの前半では、三月一九日の行動について、その日S警備には行っていない、と供述していたが、一〇日の取調べの後半からは、一九日S警備に行ったが、行ったのは午前中である、と供述を変えた。
一〇日の取調べは、戸次班所属の後藤正則巡査部長(以下「後藤巡査部長」ともいう。)が担当し、同じく戸次班の福田登巡査部長(以下「福田巡査部長」ともいう。)及び浦口光央巡査(以下「浦口巡査」ともいう。)の両名が補助者として立会した。
(2) 被告人は、四月一二日後藤巡査部長の取調べに対し、初めて本件犯行を自白し、翌一三日もこれを維持したが(四月一二日付け及び四月一三日付け各員面調書)、四月一四日和泉署に来署した検察官に対して犯行を否認した。この否認のあと後藤巡査部長に代わって植松警部補が被告人を取り調べたところ、次第に軟化し当日一部犯行をほのめかすような供述を始め、翌一五日再び自白した(四月一五日付け員面調書)。四月一六日から再び後藤巡査部長が被告人の取り調べに当たり、同月一七日付け及び同月一八日付けの自白調書が作成されているが(四月一七日付け、四月一八日付け各員面調書)、もっとも四月一五日自白した後、四月一六日ころまでは、調書は作成されていないものの、否認自白を繰り返していたところ、四月一九日大阪地方検察庁における検察官の取調べに対し、再び犯行を前面的に否認した(四月一九日付け検面調書)。
なお、後藤巡査部長、植松警部補の取調べに際しては、福田巡査部長及び浦口巡査の両名が補助者として立会している。
(3) 四月二〇日再び植松警部補(立会浦口巡査)が被告人の取調べに当たったところ、被告人は再び犯行を自白し、同日付け及び翌二一日付け自白調書が作成された(四月二〇日付け、四月二一日付け各員面調書)。被告人は、四月二一日には植松警部補の勧めで、今後は検察官の面前でも自白する旨と事件のあらましを綴った検察官あての上申書を書いて提出している(この上申書は同日付け員面調書に添付)。
被告人は、同二一日和泉署における検察官の取調べにおいても犯行を認め、以後警察での取調官は再び後藤巡査部長に代わったが、警察官の取調べに対しても検察官の取調べに対しても自白を覆すことはなかった。また、捜査本部では司法警察員増田義則を責任者とし、後藤巡査部長も参加して四月二三日午前一〇時三〇分ころから午後三時ころにかけて、被告人立会いのもとに四角公園から旧国鉄天王寺駅、同信太山駅から大阪府和泉市伯太町<番地略>の死体発見現場(犯行場所)に至る間の同行見分並びに犯行情況を再現させた実況見分を実施している。被告人はその際にも自分が犯人であることを前提として支持説明をし、一見協力的態度をとっている。ただし、その際被告人は、信太山駅から犯行現場に至る経路で、駅の近くの菓子屋で被害者にアイスクリームを買ってやったとしてその店(タカラブネ信太山店)を指示したものの、Cのサンケイ新聞販売店のあったところやJの牛乳店に立ち寄ったり、△△荘近くまで行ったとの指示説明はいずれもしなかった。S警備には一人で行き被害者を手前の四つ角のポストのところに待たせていたと説明した。また、犯行現場近くでは、これまでの自白内容を訂正して被害者とともに松林の中に入った場所について、青少年キャンプ場の門又はその付近と異なり、それより西寄りで高津池、上池の手前、前出ゴルフ一五の電柱の東方向約一五メートルの地点を指示した。しかも、この地点は、最初ゴルフ一五の電柱の西方向にあるゴルフ一四の電柱付近から松林の中に入りかけたところをすぐ違っているということで折り返し、改めて指示するに至ったものである。犯行現場には瓶に花が供えてあったが、被告人は同所で手を合わせ祈っていた。
なお、四月二一日以後からは後藤巡査部長の取調べの立会補助者も福田巡査部長、浦口巡査のどちらか一名になり、その後四月二二日付け、四月二三日付け員面調書が作成された。四月二三日の後藤巡査部長の取調べは前記実況見分の後であり、その際作成された調書では、「私は(A君と松林に入った位置について)前にもう少し上がったところにある青少年キャンプ場の飯ごう炊飯のできるようになったところの門から入ったと話していたが、これは私が△△荘に住んでいたころ同じ所に住んでいるF三歳を遊びに連れて行った時と勘違いをして話していたもので、今回現場に行って思い出しましたが、A君を連れて行ったころにはキャンプ場の手前の方は道路工事をやっており、道端にバリケードの様な柵を置いてあったのですが、今回案内して写真をとってもらいましたように老人ホーム手前の左側の藪のところから、松林の方に入ったのです。」との被告人の供述が録取されている。続いて四月二四日付け(二通)、四月二五日付け、四月二六日付け及び四月二八日付け各員面調書が作成されたほか、四月二一日付け、四月二六日付け、四月二七日付け及び四月二八日付け各検面調書(いずれも自白調書)か作成されている。
(4) 被告人は、四月二二日には接見に来た弁護人にも犯行を認める旨の供述をし、同月三〇日本件誘拐、殺人罪で起訴され、五月一日大阪拘置所に移監された。その折り新入調べ室において、新入監者受入れ手続きを受けていた際、同時に新入監者手続を受けていたR(以下「R」ともいう。)と隣り合わせになり、当日後藤巡査部長からもらい受けて携帯していた被害者の写真を所持品の上に出していたところをRに見付けられ、話し掛けられた際本件犯行を告白した。また、移監後被告人は、「もしあの時A君を信太山などに連れていかなければあの様なことは起こらなかったのです。」と記し、本件に対する後悔及び被害者の両親に対する謝罪の気持ちを書き綴った手紙を後藤巡査部長あてに出した(大阪五月六日一八時から二四時の消印がある。)。しかし、その後被告人は被害者の両親にあてて線香代として五〇〇〇円を送金するなかで、「先の後藤巡査部長あてに出した手紙は、後藤巡査部長を安心させるために書いたもので、自分は本当は被害者を殺していない。警察で拷問を受けて嘘の自白をしたものである。その手紙の中で自分が被害者を信太山に連れて行かなければこんなことにならなかったような書き方をした部分は、食堂などに連れて行かなければこんなことにならなかったと書くべきところを間違えて書いたものである」旨の手紙を書いている(その消印は六月一日のようである。)。
(二) 自白の概要
被告人は捜査段階の大半本件犯行を自白していたものであるが、一口に自白といっても時期により精粗があり、その内容の変遷も甚だしい。この意味するところをいかに解するかは事案の真相を解明する上で極めて重要であり、今後各論点ごとに詳細に検討していくことにするが、その自白内容、変遷の跡をみるために各自白調書について、これに表示されている供述録取者、立会人及びその内容の骨子などについて、日時の順に従って記載してみたのが別紙自白調書一覧表である。
右一覧表記載のとおり被告人の捜査段階の供述は、自白しているときでも犯行に至る経路において、信太山駅から犯行現場に行く間に、アイスクリームを買ったことはおおむね一貫して供述し、Cのサンケイ新聞販売店に立ち寄ったことは終始否定しているものの、Jの牛乳販売店及び△△荘のD方を訪ねて行ったか否か、犯行現場の松林の中には当初どこから入ったか等の点について変遷があり、また陰茎切除の事実についてはほぼ一貫して認めるもののその理由、犯行態様等についても変遷が甚だしい。
(三) 被告人の弁解内容
被告人は、公判において再び犯行を全面的に否認し捜査官に対して犯行を自白するに至った経緯について種々弁解しているが、その内容には、いろいろ矛盾しているところもある。それらについては今後各項目でさらに詳細に検討するが、ここでは、原審段階の弁解を中心に、これを要約するとおおむね次のとおりである。
(1) 捜査官の暴行、脅迫についての供述
被告人に対する捜査官の暴行、脅迫が始まったのは勾留質問が終わった四月一一日夜ころからである。被告人は、四月九日逮捕され、誘拐、殺人の逮捕状を示されたのは翌一〇日朝であるが、勾留まで終始犯行を否認していた。
暴行、脅迫の内容は、二畳位のコンクリートの部屋で後藤巡査部長は、机を脇に寄せ、背もたれのない丸椅子に自分を座らせ、股で被告人の足を挾み動けないようにして、頭を押さえつけ、浦口巡査が後ろから両手で首を締めぎゅうぎゅう押し、手拳で負傷している右のあばら骨を殴り、被告人の手を後ろにねじ曲げた。そして、被告人が腰掛けを持ったら、腰掛けを振ると思ったのか、浦口巡査が私を床に倒し、あばら骨のところに膝をぎゅうぎゅう押しつけてきた。福田巡査部長は、一回だけ、「甲、腹の中すっぱりして本当のことを言え。」と言って、耳のところに口をつけて言ったから、「やっていませんよ。」と言うて、手をちょっとひっかいてやった。また、にやけたような刑事が、私の耳のところに口を寄せて、「甲、その子を生かして返してやれ。」と言うて、鼓膜破れるかと思った。「A君を生かして返してやれ。」とは何回も耳元で怒鳴られ、耳の鼓膜破れると思って、耳に紙を詰めた。そしたら、紙も取られて言われた。
被告人は四月一一日自分でガラス窓に突っ込んで怪我したが、これは、トイレに行かしてもらったとき、手も洗わせない、入れ歯だというのに、口もゆすがせないので、嫌がらせにやった。
浦口巡査に脇腹を膝で抑えつけられた次の日、警察の留置場で医者から見てもらったが、その時ゼノールという湿布薬をもらった。自分はその医者に拷問をされていると言った。医者はその時立ち会っている警察官に、もうやるなと言わんばかりに手まねをやっていた。
自分は、最初あんまり拷問するんで、こんなことされたら殺されると思ったので、「やりました。」と言った。ここで頑張ってもだめで、裁判でひっくり返してやろうと思った。四月一三日朝一〇時くらいに中道弁護士と最初の接見をしたが、そこでは「事実やっていない。」と話した。またその時拷問されていることもはっきり話した。
四月一四日検事調べの時(注、この時被告人の取調べはなされていない。)、被告人は「何もやっていません。」と言ったら、検事はぷんぷん怒って帰った。最初の検事調べの日(注、否認した四月一九日と思われる。)、警察に帰って、浦口巡査から革靴で何回も足を踏まれた。
暴行は勾留延長の四、五日後まで続いた。その後自分が警察の言いなりになると、リンゴを買ってくれたり、たばこを吸わしてくれた。四月一二日から二一日まで、取調べは大体毎日あり、朝九時か九時半に房から呼び出され、午後一〇時過ぎていた。一二日は一一時半ころまで続いた。昼食の時も、食事の後、ものの一、二分から取調べが再開された。
四月二二日中道弁護士と接見し、その時結果的には犯行を認めるような話をしたが、それは、自分が拷問に耐えきれなくなって、やりもしないことをやったと言ったんで、やったと言えば拷問やめると思って、刑事を安心させるために弁護士にも「やりました。」と言った。接見の時、何時も後藤巡査部長か浦口巡査が聞いており、その時もドアの隙間一センチメートル位の所から足が見えていたので、わざと大きい声で言った。
植松警部補からは、直接暴力は振るわれなかったが、取調べには浦口巡査が立ち会っていた。
検察官の調べは紳士的にやってくれた。そこで、拷問されて嘘を言ったのを検事の前では通していない。私にだって良心がある。四月二一日の検事調べで認めたのはこっちもやけくそになり、こんなの早く認めて拘置所に送ってもらおうという気持ちになったからである。
(2) 個々の自白又は犯行を認める上申書を書いたことの弁解
① アイスクリームを被害者に買ってやったと供述している点
警察官があまりしつこく言うので仕方なしに認めた。もちろん、そんなものを買ってやったことはない。
② S警備に行った時A君(被害者)をポストのところに待たせていたと供述している点
ポストでなくてもよかったが、それが一番目についていたので、自分でその陰で待たしていたと言ったが、そこは八百屋の角のところになっていて隠れたって隠れおおせるところじゃない。被告人が出てくる時、S警備の女事務員がトイレに立ち、いればすぐ分かったはずである。S警備のトイレはいったん外に出る。
③ 牛乳屋に寄った点
自分は後藤巡査部長から「牛乳屋に寄って牛乳飲ましたろう。おかみがそう言ってる。」と言われたので、とんでもないと言った。それは△△荘にいた時隣のKちゃんを連れて行ったときと間違っている。四月一三日付けの調書に載っているのは取調官のでっち上げである。
④ 被害者の陰部に触ったり、その陰茎を切ったとの自白、その時の情況についての供述
四月一三日付け員面調書で被告人が被害者の陰部を触ったと供述しているのは、後藤巡査部長が誘導したもので、「チンチンいじって立たしたんだな。」というので、「はいはい、私が立たしました。」と言った。陰茎を切った点については、後藤巡査部長が「どうやって殺したんか。」と言い、私が「どこを切られたんですか。」と言ったら、「胸ですか。」「そうだ。」「まだある。」だんだん下がってきて、「腹ですか。」「へそですか。」などと言って、私が「股ですか。」と言ったら「そうだ、お前なんでも知ってるな。」と言ってきた(なお、原審第四四回公判では、浦口巡査が「日にちは四月一〇日・・・・、最初の時、甲、A君の切ったチンチン元のとこくっつけて返してやれ。」と言っていたので、A君の陰茎が切られているということが分かった旨の供述もしている。)。また、(注、後藤巡査部長とも思われるが)どうやって切ったかと尋ね、衣類は切出しナイフで切ったのかと言うから、「はい。」と答え、そしたら、「どうやって、チンチン切ったか。」と言うから、「切出しナイフで衣類切ったら、ひっかかったから切りました。」と答えた。A君の陰茎を切った時にぼうこうの管が白く見えたと言ったのは、私が自殺しようとして手首を切ったとき白く見えたので、おそらくああいうとこ切ったら白く見えるだろうと思って、「白く見えた。」と想像で答えた。検察官調書の中に、腹部股間切断という言葉が出てくるのは、勾留の際判事が読んでくれた文章の中にそんな文句があったし、後藤巡査部長もそういう言葉を使っていた。
⑤ 現場で被害者と「お父ちゃんとお母ちゃんとどっちが好きか。」などという話をしたとの点
自分で作って言ったことである。
⑥ 犯行態様の中で、最初被害者の背中を軽くつついたという供述がある点
口からでまかせに言ったが、いきなり刺すもんではない。誰でも人間というものは、相手を脅かして静かにさせるという心理が働くものである。
⑦ 殺害方法
自分で想像して言った。わざわざ後ろから手を回して、A君の前面を刺したように言ったのは、後ろから捕まえたから、後ろから刺したと言ったものである。後ろから捕まえたというのは想像で述べた。さらに、後ろ(注、背中の意と思われる。)も突いたと言ったのは、A君には一七箇所刺したところがあると福田巡査部長が教えてくれたからである。
⑧ 軍手の使用の件
現場から発見された軍手は私のものではない。私は右手にはめていたなどとは供述した覚えはない。S警備に行ったときも軍手は、はめていなかった。
⑨ 凶器の切出しナイフの件
鶴見橋商店街で三月二日にナイフを買ったことはあるが、その晩(注、翌日とする弁解もある。)三角公園で燃やした。検察官に、自分が東京に行く時箪笥の中に入れたまま浮浪者に渡して燃やしてもらったと供述したことはない。捜査官からは鞘だけしか見せてもらっていない。鞘に煤がついているかどうかについては聞かれていない。法廷で見せられた切出しナイフには見覚えがない(注、なお、この点について、被告人は当審第一一回公判で取調べの時見せられた切出しナイフの鞘は自分が買ったものより大きい感じがした旨供述している。)。また、犯行後ナイフを池に投げ捨てたと言ったのは、犯人の心理になってみたら、あの辺りでやったとしたら怖さでその場で捨てるんじゃないかと思って、池に捨てたというふうに言った。
⑩ 被害者の衣類の処分
ライターで衣類に火をつけようとした点については、取調官が焼けあとを見つけ、火をつけて焼いたんだろうと言われ、その後ライターの話が出てきて、ライターでつけました、と言った。当時丸安食堂の人からもらってライターは持っていた。東京に行くまで持っていたが、紙袋に入れたまま置いてきた。
殺して衣類を剥ぎとり、そしてフェンスの所から池に向かって投げ捨てたら衣類の一部が枝に引っ掛かったとも言ったが、口から出任せである。また、それを三月二一日にこうもり傘でそれを落として池の中に捨てた、というのも想像で述べたことで、真実味を出すために言ったことである。更に捜査段階で、その時死体も見に行ったなどと言ったことはない。
⑪ 信太山からの帰りに鳳駅で鉄道公安官のような人にあった点
会ったことは事実であるが、そのときドキッとしたと言ったのは言葉のあやである。私を犯人と見ているから、その口をあわしてやっただけである。自分は全部、初めから裁判でひっくり返すという頭があったから、向こうのいいなりになった。
⑫ 犯行現場の松林への進入経路について
私は現場近くには△△荘に住んでいたころ、一度だけ近所のKちゃんとQちゃんを連れて行ったことがある。そこはキャンプ場の本館みたいなのがあり、その裏側でキャンプするらしい。当時裏に売店があり、連れていった子供達にサイダーを買ってやった覚えがある。四月二三日の引き回しの時はキャンプ場の飯ごう炊飯するところ全然変わっていて分からなくてまごまごした。私は殺された現場は教えられていたが、私が思っていたところと全然違っていた。先が現場だと思っていたが、ずっと手前であった。警察官が子供と行った時の道教えろと言ってきたので、キャンプ場のところを案内した。私が、行こうとすると、「そこじゃねえ。」と言われた。また、殺害現場も分からず、教えられたとこに行こうとしたら、もっと手前だと言われて、手前見たらカステラかなんか飾ってあり、警察官はそこで手を合わせろと言うので、手を合わしたら、ぱっと写真取られてしまった。
⑬ 四月二一日付けの検察官あての上申書
自分が後藤巡査部長に拘置所に行きたいと言ったら、認めているという上申書を書けと言った。
認めて早く送ってもらおうと思って書いた。後藤からは悪かったというふうに思いこますようにして書けと指示された。内容は想像で書いたところもあるし、後藤から言われたところもある(原審第四五回公判)。私がもう切羽詰まって気持ちが沈んでいるとき後藤巡査部長から助け舟でも出すように上申書書けと言われ、自分で悪かったというふうにして書けと言われ、文章は多分頭で考えて書いたと思う(原審第五三回公判)。
⑭ 拘置所移監後に後藤巡査部長あてに書いた手紙について
五月一日に拘置所に移監されたが、その後は警察官は拘置所に来ていない。当日拘置所に連行されたとき、後藤巡査部長がおれに礼状とA君の母親あての詫び状を書けと言った。私は言うとおり書かないと、警察に呼び戻されてひどいめにあうと思って、言うとおり書いた。ただ、食堂へ連れて行ったということを、信太山に連れて行ったなどと間違って書いたので、あとでA君のお母さんに香典として五〇〇〇円送ったとき、私がやったんでありません、と手紙を書いて出した。
⑮ 犯行現場の図面の作成
その図面は教えられて書いた。老人ホームがある所と本館がある所は書いたが、犯行場所は、その図面の上に後藤巡査部長がここだここだと言って印を付けた。そして一回書いたやつを破いてまた、書き直せと言ったので同じように書いたものである。
その他
⑯ 自分は取調べ段階で死刑という言葉を言ったことはない。
また、取調べの時、A君の顔を殴ったろうと聞かれた気もするが、それは認めなかった。
死体の上に松の枝を置いたかどうかについては聞かれていない。
以上のとおりである。
2 自白調書の任意性について
原判決は、事案の重大性、被告人に対する嫌疑の強さ等から考えて取調べにあたっては相当厳しく追及されたであろうことは容易に推察されるが、自白調書の任意性に疑いを抱かせるに足るものは見当らないと判示し、検察官は原審でも当審でも一貫して自白調書の任意性に問題はないと主張している。
しかし、原審・当審弁護人らは一貫して自白調書の任意性を争い、被告人の自白は取調べ警察官らの拷問によって得られたもので、そのことは、捜査段階の被告人の供述が否認、自白を何度も繰り返し、自白の内容も取調べの都度異なるほど変遷し、真犯人の供述とは到底考えられないことからも明白である、と主張している。被告人の弁解は前示のとおりである。
前記のとおり、被告人の捜査段階の供述は、否認―自白―否認―自白―否認―自白と五転しており、その自白自体でも内容は相当に異なっており、それ自体極めて異常である上、特に、前記のとおり自白といっても犯行場所に至る経緯、犯行態様、犯行後の行動などに相違する点が多い。
事案の重大性、被告人に対する嫌疑の強さ、被告人の猜疑心の強い性格などから予想される取調べの困難性などを考えると、その取調べにあたっては相当厳しく追及されたであろうことは容易に推察される。しかも、被告人は勾留場所として捜査本部の設置されている和泉警察署の留置場(代用監獄)を指定され、勾留中はその延長を含めて二〇日間同所に勾留され、警察の取調べにあたっては四月二〇日までは取調官である後藤巡査部長、植松警部補の他に福田巡査部長及び浦口巡査が補助者として立会い、更に関係証拠によれば、当初後藤巡査部長の取調べにおいては、机を横にやり、同人が被告人の直前に座り、被告人の両足をはさむようにして体と体を突き合わせるような格好で取調べが行われたこと、更に四月一四日被告人は和泉警察署の嘱託医である田川久康医師の往診を受けている事実も認められる。したがって、被告人の取調べにおいては、被告人の弁解するような捜査官の拷問ないし強制の可能性を一応疑って見る必要があり、この点については慎重な検討が必要である。
しかし、被告人の自白調書には前示のとおり重要な点について否認を貫いていたり、説明を避けたり、理由もなく供述を変更している点もあり、捜査官が一方的に誘導したり拷問してできた調書とは到底認められない。特に、信太山駅から殺害場所に至るまでの間に新聞販売店に寄ったとか、牛乳屋に寄った、あるいは△△荘にDを訪ねたのか否かの点などについて変遷し、重要な点になると頑として自分の主張を通し、他方、もともと裏付け証拠のないアイスクリームをAに買ってやったという点については、それがキャンデーだったのか、カップだったのか、五〇円だったのか一〇〇円だったのかまで細く供述し、この傾向は、天王寺駅から信太山駅に行くのに乗った電車についても、快速で途中各駅停車の電車に乗り換えたのか、始めから区間快速に乗って乗換なしに行ったのかなどの供述経過についても窺える。捜査官の方で被告人に翻弄されている印象さえ受ける。また、被告人が自白の中には想像で自ら述べたと供述している点も多い。更に拷問に耐えられずに事実を認めたといいながら、事実に反する供述をし、さらに次々と供述を変え、どうせ自分は裁判になったらひっくり返すつもりだったので、いい加減なことを言ったなどと弁解している。こうした被告人の供述態度は、被告人の公判供述からも推測できるのであって、例えば、原審第五二回における弁護人や検察官の質問に対して、追及されると答えをはぐらかし、又はあいまい化していることが認められるのであって、これに徴しても、被告人に対する捜査段階の取調べが難渋を極めたであろうことは容易に推認することができる。原審第二七回ないし第三〇回公判における後藤証言並びに同第三八回、第三九回公判における証人植松静夫の証言によると、被告人は警察官の取調べでは、常に本件で極刑に処せられないだろうかと心配しており、警察官調書は公判でいくらでもひっくり返せるが、検察官に自白してしまえば終わりだなどと口走っていた事実が認められる。また、前掲原審における後藤正則の各証言、原審第三一回ないし第三三回公判における福田登の各証言及び同第三四回、第三五回公判における浦口光央の各証言などによれば、被告人は、平塚署から和泉署までの押送途中及び和泉署において、押し掛けてきた報道陣に対し、唾をはきかけたり、足蹴にしようとして暴れるなど、逮捕当初から非常に粗暴な態度を示しており、そのため被告人が落ち着くまでは取調べに二名の補助者が付されたこと、後藤巡査部長の取調べ中、突然「やっちゃいねえ。」と言って立ち上がり、同巡査部長が読み上げた被疑事実をコピーして記載した用紙を取り上げ、これをくしゃくしゃにして引き破ろうとしたり、被告人の供述の虚偽や取調官の持っている情報との矛盾を指摘して追及されたりする度に、立ち上がって取調官につかみかかろうとしたり、あるいは、壁に自分の頭をぶつける、窓ガラスを割って自らの手首を切るなどの自傷行為にでようとしたため(この点は一部被告人も認め、さらに、原審第三一回公判における福田登の証言によれば、土下座して頭を床面に打ちつける行為までした事実が認められる。)、その都度後藤巡査部長や補助者がこれを制止するため被告人ともみあいになり、その際被告人の力も強く、いきおい制止行為も相当強いものとならざるを得なかったが、それ以外に暴力を振るって被告人に自白を強要したような事実はないと認められる。ところで、原審第三二回公判における福田登及び同三七回公判における田川久康(医師)の各証言によれば、四月一四日午前被告人が胸部の痛みを訴え、右田川医師の診断では、被告人の左第六、第七肋骨乳線上に圧痛を認めたが、関係証拠によれば、これは三月七日被告人が西成で喧嘩をして左第六肋骨を骨折したときの傷の痛みが、右のような警察官とのもみあいの中で再発したと推認される(この事実は、原審において右田川医師が、診察の際、被告人は同箇所にトラコバンドをしており、その点を尋ねると、被告人が西成で喧嘩して負傷しトラコバンドをしていると説明したこと、及び被告人が当日圧痛を訴えた場所には創、皮下出血、浮腫はなかった、と証言している。なお、被告人は勾留中に医者に診断してもらい、その時拷問されていることを訴えた旨供述しているが、その医者は右田川医師と認められるところ、同医師は被告人からそのような訴えはなかったと証言している。)。しかも、本件の逮捕・勾留は当初から起訴事実である誘拐、殺人の罪でなされ、別件逮捕、勾留のような違法・不当はないこと、被告人は警察官に強制、拷問を受けたと主張するけれども、被告人は勾留の二日目(翌日)には概括的ではあるが、自白を始めている。関係証拠によれば、被告人は勾留の三日後の四月一四日の時点ですでに中道武美弁護士の接見を得ており(なお、原審第二六回公判では同弁護人は四月一三日午前一〇時位に接見した旨発問している。同弁護士の弁護人選任届けは四月二三日付に大阪地方検察庁あてに提出されている。)、更に捜査段階においては翌一五日に近森土雄弁護士(同弁護士の弁護人選任届けは起訴後の六月二三日に原審裁判所に提出されている。)一七日に小野範夫(同弁護士の選任届けは四月二八日大阪地方検察庁に提出)、二〇日、二二日、二四日、二六日と前記中道弁護士と接見している(捜査段階から原審第一回公判が開かれるまでの弁護人の接見状況は別紙弁護人接見一覧表記載のとおりである。)。被告人は右接見の際、特に中道弁護士と最初に接見した時、拷問を受けていると訴えた旨弁解するも、関係証拠に照らしても、弁護人らが捜査当局に抗議したり、検察官に移監を申出た事実は窺われず、したがって、被告人が弁護人に対して強制、拷問などの違法な取調べが行われている旨を訴えた事実はないと推認される。
取調べ時間については、大阪府和泉警察署長作成の昭和六〇年一月二九日付け捜査関係事項照会回答書に添付の留置人出入簿の謄本によれば、特に当初否認し、あるいは否認から自白に転じた時期に午前九時、一〇時から午後九時すぎ、一〇時すぎ(出入監状況によれば、四月一一日は午前九時三五分に取調べ目的で出て、午後一〇時四五分に房に帰ったようになっていて、最も長時間房から出ていたと認められる)まで取調べられている事実が認められるが、うち四月一一日は勾留請求のあった日で被告人自身、警察に帰って来たのは夜であったと供述しているところであって、右のような取調時間の長さから、直ちに任意性に影響を与えるような不当な取調べがなされたとはいえない。
更に植松警部補の取調べについては、被告人自身、原審第三九回公判で同警部補の証人尋問に際し、発問する中で「あんたは、わたしに、それはよくしてくれた。」と述べ、更に被告人自身原審公判廷で、検察官の取調べについては「紳士的」であったと供述していることなどを併せ考えると、被告人の自白調書の任意性は、原判決と同様に、認めることができる。
3 自白調書の信用性について
前認定のとおり被告人の自白調書に任意性は認められるものの、その信用性は別問題であり、十分な検討が必要である。
この点に関する原判決並びに検察官及び弁護人の各主張は次のとおりである。
原判決は、前示のとおり自白調書の任意性は認めたものの、被告人は、捜査段階で再三否認と自白を繰り返し、取調べに当たった警察官自身が最終的に「本割れではない」(原審第三八回公判における証人植松静夫の供述)「公判廷では否認するであろう」(原審第三五回公判における証人浦口光央の供述)と思っていたことなどからみて、被告人の自白は、真の悔悟からでたものではなく、真偽はともかく、不本意なものであったことは否定できず、その信用性の判断は慎重を要するとして、詳細に検討したうえ、結局、検察官が主張する自白の信用性を支える事実は、その信用性を判断する上において肯定的に働く点がいくつかあり、なかにはかなり重みのあるものも含まれているが、いずれも決定的なものとはいえず、自白内容には解明できない疑問点が多く、合理的疑いが残るとして、その信用性を否定した。原審検察官は論告で、自白調書に任意性はもちろん、信用性も十分認められるとして、その根拠として被告人の自白には使用凶器、犯行態様、犯行後の行動などについて、犯人にしか分からない事実が含まれており、かつそれらは客観的証拠によって認められるところと一致し、かつ四月二二日には接見に来た弁護人にも犯行を認め、起訴され身柄を拘置所に移監された後にも、後藤巡査部長にあてて、犯行を認め、反省の状を綴った手紙を書き送っていること。また、被告人は、三月二〇日被害者が行方不明というだけで伯太町で殺されていることがいまだ誰にも判明していない時点で、西成署の事情聴取に対し、三月一九日伯太町のS警備に行ったことを隠し、逮捕後も三月一九日にS警備に行ったのは午前中であるなどと必要のない虚偽の供述をしていることなどから見て被告人の自白調書の信用性は高いと主張した。そして、所論も、原審検察官が主張していた事実に基づいて原判決の判断に逐一反論し、併せて検察官は当審において被告人の自白の信用性を裏付ける新たな事実を立証した。もっとも、所論は、被告人は一応悔悟の情から観念して自白したものの、完全に反省悔悟したものではなく極刑に対する恐れや被告人の特異な性格から、取調官が供述の矛盾点や不十分な点を追及すると反抗的態度に出て、取調べを拒否することも再三あり、これがため被告人から完全な自白を得るには至らなかった面のあることは認めている。他方、弁護人は原・当審一貫して被告人の自白調書には任意性も信用性も認められないと主張している。
そこで、以下各論点ごとに検討する。
(一) 原審検察官が自白調書の中で犯人しか知り得ない事実を自供していると主張している点について
(1) 使用凶器についての自白
原判決は、本件犯行に使用された凶器が切出しナイフらしいということは、被告人の供述を待つまでもなく、被害者の死体の解剖所見及び死体発見現場に遺留されていた切出しナイフのものと思われる木製鞘の存在から容易に推察されることであり、かえって被告人が犯行を自白した四月一二日には、当初、凶器は文化包丁あるいは果物ナイフと供述していたことが窺え(植松メモによる。)、自白調書でそれが切出しナイフとなったことについては誘導の可能性すら否定できないのであって、それが死体の創傷の状況と一致し、ナイフの購入先などが被告人の供述から判明したことをもって自白調書の信用性を特に高めるものとは言えない、と判示している。
所論は、本件犯行に使用された凶器については、鞘がすでに現場で発見されていたとはいえ、被告人が四月一二日自白したことにより切出しナイフと判明し、かつ、現場遺留の鞘は使用凶器のものであることが明らかとなり、しかも、被告人は、切出しナイフの形状及び購入先のW1計量店も正確に図示し、代金も三五〇円であったと正確に供述し、これによって被告人の自白の信用性は高まったと主張している。
確かに、本件犯行に使用された凶器が切出しナイフらしいということは被告人の供述を待つまでもなく捜査官側で容易に推察されることであり、また、植松メモによると、捜査官には、被告人の逮捕前から被告人が前記□□病院に入院中鞘付き切出しナイフ様のものを持っていた事実をつかんでいたとみられる。しかし、本件においては、前認定のように現場遺留の本件鞘が本件で凶器として使われた刃物の鞘と推認できるとともに、W1計量店で二月二日ころ被告人に販売した切出しナイフが被害者の損傷状況からみて本件凶器と考えて矛盾しない上、右切出しナイフが現場に遺留されていた凶器の鞘と符合するほか、前認定(第二の二の1記載)のとおり、少なくとも被告人がこの切出しナイフを三月一八日ころまで所持していたことについては、他の目撃証拠がある。加えて、当審における証人後藤正則及び同高橋重文の各証言によれば、被告人が取調べの当初このナイフの購入場所について殊更虚偽の供述をして捜査を攪乱しようとしていた状況も窺える(被告人は当審第一一回公判で、後藤巡査部長の取調べで凶器に関して、自分は当初分からないけど、何の凶器を使ったと言われて、包丁と答えたら、確か後藤と思うが、包丁じゃないと言われたので、今度は果物ナイフと言ったら、それでもないと言うから今度は知ってる限りの名前を考えて、最後に切出しナイフと言った。しかし、その切出しナイフなんか私は凶器に使った覚えはない。調べの途中で、警察官は、私の指紋を付けさすために、わざわざ袋に入ってる切出しナイフの鞘を袋から机の上に落として、これお前のかと言って、知りませんと言ったら、じゃ袋に入れろって、私が握るのを待っていた。切出しナイフの購入場所について、最初警察官が西成区の石塚商店に裏付け捜査に走ったのは、私が前に喧嘩して事件起こしたとき、そこで刺身包丁を買ったので私がそこで買ったと言ったからです。石塚商店に行ってそんなもの売ってなかったと言われ、パチンコ屋の斜向かいと言ったのです。地図を書いたが、これじゃ駄目だからもう一枚書き直せって言われ、結局三枚か四枚書き直した旨供述している。しかし、前認定のとおり、被告人が三月二日ころ西成区内のW1計量店で切出しナイフを購入した事実は動かない事実であり、被告人もこの事実を争っていない。また、被告人がその購入場所の裏付け捜査に対しても非協力的であった事実は、被告人の右供述からもある程度窺い知ることができる。)。さらに、被告人は原審、当審公判廷で、W1計量店で購入した切出しナイフの処分に関して火にくべたとか、捜査段階の一時期東京に行くとき箪笥の中に入れて西成の浮浪者に渡して燃やしてもらったなどと不自然な供述をしている。
以上の事情は、被告人の購入した右切出しナイフが本件の凶器として使われたとする自白の信用性を支えるものといえる。
(2) 犯行態様についての自白
原判決は、犯行態様に関する被告人の自白について、確かに、脅しのために背中を一度つついた、との供述や被害者の後ろから手を前に回してその胸腹部を突き刺した、との供述は、客観的証拠にその痕跡があるわけではなく、解剖所見等から導き出しうるものでもない。しかし、背中をつついた、との点について言えば、この関係の供述は、四月一八日付け員面調書から出てくるのであるが(注、関係証拠によれば、この点は四月二一日付け検面調書の誤りであると認められる。)、最初は「背中」ではなく「胸か腹のあたり」を軽く突いたと述べていたのであって、必ずしも一貫性がない上、それ以前の供述は、逃げようとする被害者を追い掛け、その左腕をつかみ、いきなりナイフでその胸腹部を滅多突きにしたといういかにも唐突の感を免れないものであったこと、また、後ろから手を前に回して、との供述について言えば、死体に残された創傷痕、解剖所見と何ら齟齬するところはないが、自白の中で供述するところも、犯行のこの場面としては格別特異なものではないことなどを考えれば、「(取調官に厳しく追及され)犯罪者の心理を考え、想像で述べた」との被告人の弁解もあながちそうたやすく否定し去ることは困難である。なお、後ろから手を前に回して、という供述が創傷痕の形状との関係でむしろ疑問である・・・・。また、被害者を突き刺した順序等については、・・・・被害者の死体の損傷状況、その解剖所見、被害者の着衣の損傷状況等についての情報が、被告人を取り調べる以前にすでに取調官の手中にあったのであるから、被告人の供述がこれら客観的証拠の示すところと符合するからといって、そのことをもって特別自白調書の信用性を高めるものとはいえない、などと判示している。
所論は、殺害状況について、被告人は「実際に被害者の腹や胸を突き刺す前に脅しのために背中を一度つついた」、「被害者の後ろからナイフを持った右手を前に回してその胸や腹を突き刺した」旨客観的証拠から分からず、被告人の供述を得て初めて明らかになる事実を述べており、かつ被害者の身体を突き刺した順序等についての供述も解剖所見、鑑定結果と符合し信用性が高いと主張している。
確かに、原判示のとおり、右犯行態様についての自白は格別目新しいものではなく、自白の前にかなりの部分捜査官側で把握していた事実も多いが、逆にいえば、そのことの故に特に供述の信用性が損なわれるものではないといえる。ただ、原判決は、「脅しのために背中をつついた」旨の供述は、それ以前は「旨か腹あたりを突いた」と述べ、その前は「いきなり胸腹部を滅多突きにした」などと一貫性がないと判示しているものの、真偽はともかく、客観的証拠で明らかにできないもので、捜査官がこの点を誘導したとは考えられない。また、後ろから手を前に回して、との供述については、原判決は、犯行場面としては格別特異なものではなく、想像で述べた、との被告人の弁解もあながち否定できない上、死体の損傷痕からの形状との関係でむしろ疑問であると判示し、更に別の箇所で、右疑問点を次のとおり詳細に指摘している。すなわち、吉村鑑定医作成の鑑定書によれば、被害者の胸腹部の刺創の形状は、いずれも刃をほぼ真下もしくはそれに近い方向に向けて刺されたものと認められるところ、自白調書では、被害者を刺すとき「ナイフの柄を逆手に刃を下に向けて突き刺した」(四月一三日付け員面調書)とか「侍が切腹するような格好でナイフを握って刺した」(四月一八日付け員面調書)などと述べており、これに先に見た、背後から手を前に回して刺したとの供述を併せると、それでは死体に残されているような下向きの刺創を負わせるには手首に無理がかかり、被告人の供述どおりであれば、刺創の向きはもっと斜めか横向きになるものと考えられ、被告人のこの点の自白は死体の損傷状況と合わないきらいがある、というものである。
しかし、右鑑定書を子細に検討しても、被害者の死体に下向きの刺創があったと書かれている部分は見当たらず、当審第四回公判において吉村鑑定医は、本件の損傷検査は、皮膚が腐敗して柔らかく若干変形しており困難であったが、内景所見、内部の組織や臓器に作られた損傷から見ればいずれの損傷も下の方が尖鋭であり、下が刃で上が峰の用器によって作られたものだということがわかった、その刺創から見ると、犯人が被害者と対面して、前方向に刺すことも、子供である被害者の背中を自分の腹部に接して、肩越しに、あるいは横から刃を自分の方に向けて逆手に持つなどして、そして前方から自分のほうに引いて刺したと考えても不自然ではなく、死体のような胸腹部の刺創を作るのに特に手首を無理に返さなければならないものでもない、と証言している。したがって、この点の原判決の指摘は必ずしも当を得たものとはいえない。また、前示のとおり、被告人は原審第五一回公判で、取調官に対して、人間の心理を考えて脅して黙らせるという考えから刺す前に背中を軽くつついたと話した旨、また、原審第五二回公判で、あいまいな供述ながら殺し方についても何か言わなかったらひどい目にあうから小説なんか読むので自分で想像して答えた、後ろからつかまえたと想像し、後ろからつかまえたから後ろから刺したというふうに言ったんです。後ろから腕捕まえりゃ、結局手がどうしたって前突くより後ろつつくようになるなどと供述している。しかし、被害者の刺創が被害者と相対して正面から突いてもできる傷であることを考えると、何故被告人がわざわざ想像で後ろから手を回して刺したと供述しなければならないのか疑問が残るといわざるを得ず、被告人の前記弁解も不自然である。したがって、この点の被告人の自白についてもその信用性は高いといえる。
(3) 被害者の陰茎切り取り事実についての供述
原判決は、被害者の陰部はその死体から欠落しており、犯人によって切り取られたものか、死後野犬等に喰いちぎられたものか、解剖所見からは明らかにできないが、被告人の自白ではこれを切出しナイフで切り取ったとしているところ、その理由について、「そのままでは男であることがすぐ分かると思い」(四月一八日付け員面調書)「ズボンを脱がせるとき私の右手に持ったナイフがA君のちんちんの所を力のはずみがついて切りさいた格好になりましたので、いっそのこと切り落としてやろうと考え」(四月二〇日付け員面調書)「ズボン、パンツなどをぬがしたのですが右手にもっていた切出しナイフが肉に引っかかったのでその場のなりゆきで切り取ってしまいました」(四月二一日付け員面調書添付の上申書)(注、一部省略)と述べているのであるが、被害者の死体からその陰部を切り取るといういささか特異な行為についての説明としては、はなはだ不十分といわざるを得ない、と判示している。また、原判決は、被告人が自白調書の中で、被害者の陰茎を切り取ったときの状況につき、「(陰茎を)切出しナイフでえぐるようにして切り取ったのですが、少し脂肪のような肉が付いていたと思います」(注、四月一八日付け員面調書)「チンチンの根元をえぐるように切り取りました処、血が出ておりましたが、ボウコウの管が白く見えたことが今でも私の記憶の中に残っております」(注、四月二〇日付け員面調書)と供述している点について、このような供述は自ら体験した者でなければ語り得ないものである、と主張している検察官の主張はまことにもっともである。「以前自殺しようとして手首を切ったとき、皮膚の内部に白いものが見えたのでこの場合も同じだろうと思って、出まかせに言った」との被告人の弁解は容易に納得し難く、被告人が真犯人ではないかと強く疑わせるものである。ただこれをもって自白の信用性の決め手とし、被告人を真犯人と断ずるのは飛躍し過ぎるというべきである、と判示している。
所論は、被害者の死体下腹部から右大腿部にかけて軟部組織の欠損部があった点については、前掲吉村鑑定医作成の鑑定書(死体解剖の結果)によっても、生前の損傷であるか、死後咬傷であるか不明とされており、捜査官も、捜査段階の当初野犬、野ねずみ又は鳥獣による咬傷痕と判断していたものであるが、被告人が四月一五日に至って被害者の陰部を切り取った旨自白したことから、初めて右欠損部の形成経過が明らかになったもので、この点の自白は自ら進んで供述したものとしか考えようがない。また、被告人は陰茎を切り取ったときの状況について、極めて具体的に供述しているところ、ぼうこうの管が白く見えるという事実は法医学的所見によって客観的事実と認められ、原審第三八回公判で植松警部補が「解剖には何度も立ち会ったが、尿道付近まで解剖することはないから、尿道が白色であることは知らなかった」旨証言しているように、この事実は自ら見分体験したものでなければ供述できない内容であり、被告人の陰茎切り取りに関する自白は秘密の暴露というべきものである、と主張している。
この点について、原・当審弁護人は、陰茎の欠落は、もともと人為的な切損なのかその他の原因によるのか科学的に断定できないものである。そして、捜査側は死体発見当初から被害者の陰部損失の事実を知っていたのであるから、陰部の切り取り行為の供述部分は、秘密の暴露ではない。また、「脂肪のような肉がついた」とか「ぼうこうの管が白く見えた」とかの表現は、特に真犯人でなければ語れない内容ではない。肉に脂肪がついているのは当たり前だし、管が白く見えたということはそれが格別特徴のある色彩でもなく、誰でも言える内容であり、当審で前掲吉村鑑定医は、「尿道部分の白膜は非常に薄いわけであるから、海綿体が膜よりも出ていると隠れ、海綿体が膜よりくぼんでいる場合には白膜のほうが際立って見え、したがって、断面の状態によって色のはっきりするしないというのが異なる」旨証言しており、被害者の陰茎切除行為の際に見えた管の色が白色だったかどうかは自白調書の記載部分だけからは判明しない(注・自白調書の記載がそのまま正しいとはいえないとの意と解される。)と反論している。
以上の点に関する自白の経過や内容はおおむね原判決指摘のとおりであるところ、被害者の陰部の全部又は一部の欠損が犯人の手によるものと認めざるを得ないことは前認定のとおりであるが、この点については死体の状態を見れば、その可能性もあることを当然考えさせられ、捜査官がその点から被告人を追及することもあり得るのであって、被告人のこの点に関する自白は格別秘密の暴露とまではいえない。しかし、陰茎切除時の被告人の体験供述は事情が異なる。当審で前記吉村鑑定医は、「陰茎は、三種類の組織からなっており、一番外側が外皮、その下に非常に薄い脂肪の層があり、その下にやや厚い、海綿体白膜という白い膜があり、その部分の白膜は真っ白で厚い(又はやや厚い)膜である。その中に陰茎海綿体といって薄い褐色をした部分がある。それから、その下部に尿道があり、これも同じように海綿白膜という白い膜で覆われている。ただ、その膜は、上に比べれば薄いから、よく見れば白っぽい膜が見えるというものである。その中に尿道海綿体があり、更に尿が通る尿道になっている。」旨証言しているが、検察官主張のように、このような知識を門外漢の被告人又は捜査官が事前に知っていたとは考えにくく、被告人の前記弁護も不自然で到底採用し難いことから考えると、これを原判決のように軽く見ることはできない。もっとも、弁護人主張のように、陰茎のうち尿道部部の白膜は、前掲吉村証言によれば、白膜は非常に薄く、切り口の断面いかんではその色がはっきりしないこともありうると認められるが、特別の知識がないかぎり陰茎の尿道部分とその外側の部分とを区別して見ることはできず、陰茎部分の切除によって、その印象を白いと見るのは当然であり、弁護人主張の事実を考慮に入れても、被告人のこの点の自白はその被告人自身の体験を語っているものと認められ、自白調書の信用性判断の上では重要な事実である。
(4) 三月二一日の行動に関する供述
原判決は、被告人が三月二一日S警備に行った際、D方へ行くと言ってそこを出ながら、しばらくして「行くのは止めた」と言ってS警備に戻っていることは関係証拠により明らかであり、被告人が自白のなかで一九日に被害者の着衣等を投棄したとしている場所、着衣の発見状況等から推認される投棄場所が、池まで届かず笹や木の枝に引っ掛かる可能性のある場所だけに、取調官としては、「D方へ行くと言って出て何をしていたのか、Dへ行こうとしたのではないのではないか、他に目的があったのではないか」と追及するのは当然であり、被告人の弁解もおよそ考えられないというほどのものでもない。三月二一日の行動については、かえって、若し被告人が犯人とすれば、たかだか一〇〇〇円足らずの金を受け取るために、何故その時期にそのような行動に出たのか。被害者の衣類の処理が最初から目的の一つであったのか、途中で思いついたのか、それが何れであるにしても、帰りに寄ればよいことなのに、わざわざ被告人の行動を印象づけるようにD方に行くなどと言って途中で出たのは何故なのか。重大事件の犯人の行動としてはいささか疑問を抱かざるを得ない、と判示している。
原審検察官は、被告人が「三月二一日S警備に制服を返しに行った際、一九日に被害者の着衣を捨てた場所に行き、木の枝に引っ掛かっていた被害者の着衣の一部をこうもり傘で取り、池に投げ捨てた。」と供述している点は、捜査官には判明しておらず、被告人の体験供述として信用性が高い、と主張している。
被告人はこの点については自白した翌日からほぼ一貫して、「死体や、木に引っ掛かった衣服のことが気になり、一九日に被害者の着衣を捨てた場所に行き、木の枝に引っ掛かっていた被害者の着衣の一部をこうもり傘の先で落とし、近くに落ちていたビニールに包むようにして池の中に捨てた。ビニールにくるむようにしていたので水面に浮いていたが、あまりその場に長くいると人に見つかると不安ですのですぐに林の方に引き返した。」旨供述している(四月一三日付け員面調書、四月二二日付け及び四月二三日付け各員面調書など)。もっとも、右四月一三日付け員面調書では、衣類を投棄した後被告人は被害者の死体を見に行ったと供述しているが、この点は後の調書で否定している。前示のとおり、三月二一日の衣類投棄の状況については、被告人自身公判で捜査官に誘導されたわけでなく自ら真実味を出すため想像で供述したと語っているが、被告人の衣類投棄時の供述は、具体的、詳細であって、臨場感が窺われる。しかも、前示のように、被告人が二一日わずか一〇〇〇円足らずの金をもらいに電車賃を使ってS警備まで行ったこと自体が不自然である。被告人は原審公判で、制服を返す約束があった旨弁解するが、前掲証人Yは原審第二回公判で、二一日も被告人は突然やって来た、何時かは来ると思っていたが、三月一九日に二、三日したら来るという話は聞いていなかった旨証言している。しかも、被告人は、四月二一日はS警備に着くといまだ目的の金銭の清算も済まさず、制服も返さないうちに出掛け、帰ってきて、S警備のYに「D方に行こうとしたがやめて帰ってきた。」など聞かれもしない弁解をしているのも不自然である。原判決は、被告人が犯人と考えるとわざわざこのように印象づけるような行動をしている点に疑問を投げかけている。しかし、犯人故に、先の自己の犯行が気になり、再び被害者の衣類を隠しに行くようなことをしたこと、また、その日にわざわざS警備に寄って自己の行動を印象付けるような行動に出たのは、万が一伯太町に来たことが分かった場合に、S警備に所要があったとの表向きの理由を作っておくためとも考えられ、原判決指摘のように重大事件の犯人と相容れない行動とは思われず、この点に関する被告人の捜査段階における供述も、犯行を認める被告人の自白の信用性判断の上では重要な事実である。
また、前示自白の概要で明らかなように、被告人は自白調書の中では一貫して殺害後被害者の着衣を剥ぎ取り、いったん道路に出てフェンスの所から池の方に向かって投棄したと供述している。この点について、被告人はあえて誘導されたような弁解はしていない。捜査官の誘導又は被告人の単なる想像で供述するなら、林の中を池の端まで歩いて行って捨てたと供述してもよいことである。いずれにしても、人目につきやすいとも思われる道路にいったん出てフェンスの内側に投棄し、二日後にさらに枝に引っ掛かっていた衣類を池の方に捨てに行ったとの自白は、捜査官の誘導によるものでないことは明らかであり、被告人の体験から出たものといわざるを得ない。
(二) 後藤巡査部長あての手紙及び被害者の両親にあてた手紙について
原判決は、被告人が拘置所に移監後、後藤巡査部長にあてて手紙を出し、その中で犯行を認め、反省悔悟の情を書き綴っている点について、すでに起訴され、取調官の影響下を脱した移監後のことであるだけに、まさに被告人こそ本件の犯人ではないかとの疑いを抱かせるものがあることは否定すべくもなく、被告人の自白調書の信用性を判断する上でも無視し難い意味を持つものと考えられる面がある。しかし、「拘置所に移監後も裁判が開かれるまではいつ警察に戻されるか分からないから、後藤の指示どおり後藤を安心させるように後藤あての手紙を書いた」との被告人の弁解も、被告人の捜査段階における供述の変転状況を考えれば、全く無視しさることもできないのであって、拘置所移監後に右のような手紙を書いていることをもって直ちに自白の信用性を決定づけるものとすべきではなく、この点もあくまで自白の信用性を検証する上での、重要ではあるが一つの判断資料と考えるべきものである、と判示している。
所論は、右後藤巡査部長あてに手紙を送った時期は、完全に取調べ警察官らの影響を断ち切られ、しかも被告人は、既に弁護人三名に弁護を依頼済みで、これらの弁護人と五回(うち移監後一回)も接見した後でもあり、この時期に被告人がわざわざ捜査官にこのような手紙を出したということは、正にその内容にあるように、被告人が本件犯行を犯したことに対する反省悔悟の念にかられる余り、書き綴ったものと言うべく、その自白の信用性を担保するに余りあるばかりか、被告人が犯人であることの動かし難い証拠である、と主張している。
弁護人は、この点について、被告人が本件捜査段階において、否認・自白を五回繰り返し、検察官に取り調べられた四月一四日、一九日はそれまでの警察官に対する自白を撤回している経過からして、取調べ警察官が、自己の前で自白した被告人に対し、その自白を将来撤回させないため書かせたものと認められ、自筆による上申書、あるいは供述書を書かせることはよくあることであり、むしろ、自白の任意性、信用性に疑問がある場合、捜査官において、前記上申書等を自筆させることは、経験則上垣間見られる事実である。このことは、被告人の四月二一日付け上申書の作成を巡る取調べ経過を見ても明らかである。本件においては、取調べ警察官自身、被告人が心から自白するに至ったことでないことを知っており、公判段階で否認に転じるやもしれぬと考えていたのであるから、それを防止する意味で、取調官自身に対し移監後に犯行を認める旨の手紙を書いて送るよう指示したとしても、それは十分理由があることである。また、検察官は、弁護人接見後の手紙であることを理由に、その手紙の内容の信用性を担保するものと主張するが、弁護人は、本件以前において、被告人との間で何らの依頼関係もなかったものであり、本件捜査段階(四月一四日)において、初めて被告人と接見し弁護活動に入ったことからすれば、被告人と弁護人との間の信頼関係はこのような短時間のうちに確立することは、実際上、不可能であり、弁護人接見後の手紙であることを理由に自白の信用性は高いという主張は、弁護人と被告人との依頼関係の本質を無視する論理といわなければならない、と主張している。
しかし、被告人はこれまで何度も刑事裁判を受け、関係証拠によれば、その際犯罪の成否を争った場合もあり、起訴後、移監された被告人が、再び警察に戻されるなどということは余罪が発覚した場合など特段の事情がない限りあり得ないことである。前示のとおり、被告人は原審でとにかく警察官のいうとおり嘘でも事実を認めて拘置所に移監してもらいたかったと弁解している。これによっても、被告人は拘置所に移監されれば、警察の支配から脱することができると考えていたことは明白である(もっとも、この事実は被告人に警察官が拷問を加えた事実を認めるものでないことは前認定のとおりである。)。被告人には既に弁護人が選任され、弁護人主張の刑事弁護における被告人と弁護人の信頼関係の確立にある程度時間がかかるという事実を考慮しても、別紙弁護人接見一覧表記載のとおり弁護人は既に数回接見に来ており、弁護人に確かめることも簡単にでき、もし被告人の心配しているような状況が起これば弁護人が適切に対応することもできたはずである。被告人がその点に思いが至らなかったとは考えにくい。ところで、本件書簡は後藤巡査部長作成の昭和五七年五月一〇日付け捜査報告書(原審検察官請求証拠番号一六八)に添付されている。封筒に五月六日一八時から二四時の消印があり、そのころ投函されたものと認められるが、同時に拘置所の印もあることから、いったん同所の検閲を受けたものと考えられ、被告人が実際に書いた日時は必ずしも明らかでない。しかし、別紙弁護人接見一覧表記載のとおり、五月四日には小野弁護人の接見を受けており、被告人がその際後藤巡査部長に脅されて、右手紙を出さざるを得ないというのであれば、その事実を同弁護人に告げて相談することができたはずである。小野弁護人の接見を受けた時には既に手紙を書いて拘置所当局に差し出した後であったとすれば、そのことも含めて告げ同弁護人に相談することもできたはずである。そうすれば、同弁護人の方でこの手紙が投函される前にこれを取り戻すとか幾らでも手立てはあったものと考えられる。弁護人らは公判に至るまで被告人がこのような手紙を後藤巡査部長あてに書いていることを知らなかったと推認され、本件書簡を書いた理由は、被告人が公判廷で弁護するようなものではなかったといわざるを得ない。
ところで、被告人は前示のとおり、その後被害者の両親に右後藤巡査部長にあてた手紙の内容を訂正する書簡を送っている(当審取調べ)。その中で、「私は警察官に強もんされて嘘の自白をしたが、裁判でひっくり返してやるつもりです。後藤という刑事に手紙を出してA君の御両親に詫びてくれと言ったのは、刑事を安心させるためなのです。そして話の中に信太山に連れて行かなければよかったと書いたのは食堂に連れて行かなければこんなことにならなかったのですということを間違えて書いたのです。御両親の気持ちは本当によくわかります。いつもA君のめいふくを祈っております。誠に少しですが、五千円お線香代としてお送り致します。」などと書き綴り、五〇〇〇円も同封している。しかし、この手紙も不自然である。被告人が移監後も警察に戻されるのを恐れていたなら、この時はどうだったのか。被害者の両親に送っても警察官には伝わらないとでも思ったのであろうか。また、この段階では警察官に対する恐怖はなくなったのであろうか。更に後藤巡査部長あての手紙の中で食堂に連れて行かなければよかったと書くところを間違えて信太山に連れて行かなければよかったと書いてしまったとあるが、後藤の指示どおり書いたとする公判弁解とも矛盾するし、単に間違えてこのようなことを書いたとは考えられない。また、被告人が被害者を連れて行った丸安食堂は、被害者の平素の遊び場所の一つである四角公園の道路を挾んで向かいにあり、ここに被害者を連れて行って食事をさせたことで何故被告人が責任を感じる必要があるのかも納得できない。もっとも、被告人は前認定のとおり、捜査官に自白している段階でも決定的な証拠あるいは重要な証拠と思われるものについては最後まで供述しなかったり、説明をはぐらかしており、その被告人がこの段階で何故後藤巡査部長あての簡書を書いて送ったかを疑問とする向きもあろう。しかし、被告人とて心境は揺れ動いており、捜査が終了し、静かに自己の行為を反省する一時期があったとしても不思議ではない。また、自分の裁判に対する恐れも当然あったと思われ、そのような種々の思惑の中で本件書簡を後藤巡査部長あてに書いたが、間もなく、これを打ち消すような気持ちがもたげ被害者の両親に訂正の手紙を書いたと認められる。したがって、被告人の弁解にもかかわらず、後藤巡査部長あての本件書簡はそれ自体信用性の認められる自白である上、被告人の捜査段階の自白の信用性を支える事実でもあるといえる。
(三) 大阪拘置所新入調べ室における被告人の言動(原判決後の事実取調べの結果新たに判明した事実)
被告人は、四月三〇日本件で起訴され、五月一日和泉警察署から大阪拘置所に身柄を移監されたが、当審証人Rの証言によると、Rは、同拘置所新入調べ室において、新入監者受入れ手続きを受けていた際、同時に新入監者受入れ手続きを受けていた被告人とたまたま隣り合わせになり、被告人が携帯品入れの籠に入れた衣類の上に置いていた小学一、二年生の男の子の写真(これは当日後藤巡査部長から受け取った被害者の写真であることは証拠上明らかになっている。)について、「これ、あんたの子か。」と尋ねると、被告人は「違う、被害者や。」と言うので、Rが「おっさん、何やったんや。」と尋ねると、被告人は「誘拐殺人や、わしは生きて出られへん。」「西成のニュース知ってるやろ、あれ、わしがやったんや、わしは死刑か無期や、生きて拘置所出られへん。」と言い、Rが更に「おっさん、あれやったんか。」と尋ねると、被告人は「あれ、わしが殺したんや、そやから、この子の写真見て供養しているんや。」と言った事実が認められる。Rは、右の事実を警察に申告した経緯並びにその時の自己の心境について、要旨次のとおり供述している。「自分は暴力団酒梅組系芦田組に所属しているが、丁度事務所当番をしていた昭和六三年四月二六日の午後三時のテレビのニュースで被告人が無罪になったことを知った。本人が自ら殺したと言っていたのに無罪になるのはおかしいと思った。自分も極道しとるのでこれが普通の抗争事件とか、組に絡んだ抗争やったら言わないが、小さい子が殺されたことだし、言うか言うまいか迷ったあげく、警察に電話かけることとした。事務所当番が終わって最初自分で電話をかけたが相手にされず、内妻のU(注、以下「U」という。)が夜中に帰ってきて同女に相談し、同女が一一〇番の電話をして府警本部に通じ、一日置いて四月二八日警察官が訪ねてきて前記のような詳しい事情を話した。」というものであり、この経緯は当審におけるUの証言と符合している。Rは、被告人とも被害者とも全く利害関係のない第三者であって、警察に申告した経緯、理由及び供述内容ともごく自然であって、十分信用できる。弁護人は、Rが弁護人の反対尋問にあって、同人の記憶があいまいであることを露呈しており、伝聞過程の正確性は極めて疑わしい、と主張している。確かに、Rは、弁護人から「新入監調べ室の内容について全部覚えてましたか。」と聞かれて、「全部覚えていません。」と答えているが、しかし、被告人は再度弁護人から「じゃあ、何でここで証言できたの。」と問われて、Rは「いや、言うた言葉焼きついとったからです。」と答えており、弁護人の反対尋問によって同人の供述の核心部分が動揺しているとは思われない。被告人は当審第一〇回公判で、Rと会話した事実は認めたものの、殺人行為を告白したことはないと供述し、「写真を見て、これ、あんたの子かって、こう言うて来たから、いや違います。被害者の子ですと。そしたら男は、被害者って、あんた何やってきたんだって言うから、だからね、自分は殺していないけれどもね、自分が誘拐殺人の疑いを受けて、入れられたんだと。そしたら男は、ニュースに出た、あれやったの、あんたかと。自分は自分じゃない、この事件は自分がやったんじゃないけど警察から拷問され誘導させられたんだ。しかし、自分がやったようなものだ。」と話した旨供述する。弁護人も、本件は私語が禁じられている拘置所の新入手続時における会話であって、小声でボソボソ話をしているものと思われ、Rが被告人の言葉を正確に聞き取り、それを正しく記憶し又できたか、極めて疑わしい、と主張している。しかし、Rが被告人の右供述内容を同人の前記供述内容のように取り違えたり、あるいは聞き間違えたと疑うような形跡は全く認められない。被告人の右供述は到底信用できない。その他、被告人においてRに対し、してもいない重大犯罪を告白しなければならない特段の事情も認められない。被告人は捜査官の取調べが終了し、拘置所に移監され一瞬心に隙ができた瞬間、被害者の写真を前にして、不用意な会話をしたものとみられ、それだけに被告人の真意が出たものであって、これも、それ自体信用性の高い犯行の告白(自白)である上、被告人の捜査段階の自白の信用性を支える極めて重要な事実といえる。
(四) 被告人の捜査段階の否認供述の不自然性
(1) 概要と原審検察官の主張
被告人は、①三月二〇日、西成警察署で事情を聞かれた際、三月一九日は、丸安食堂でAと食事をした後、食堂を出て別れ、その後一人で天王寺公園に行き、再び西成に戻ってきた旨供述し(三月二〇日付け員面調書)、②その後四月九日逮捕され、四月一〇日の前半の取調べでは同様の供述を繰り返していたが、同日の後半の取調べあたりから相変わらず否認の態度は崩さなかったものの若干供述を変え、三月一九日、S警備に行ったが、それは午前中である、Aとは丸安食堂で別れた以後会ってない、と供述し(四月一〇日付け員面調書)、四月一一日も同様の供述をし、四月一二日自白に転じ、同月一四日の検察官調べで再び否認し、その後再び自白したものの、③四月一九日の検察官調べで「三月一九日午後、和泉市内のS警備へ行ったことは間違いないが、A君は連れて行っていない。警察でA君を殺したと言ったのは、刑事に何度も何度もしつこく調べられ、早く調べを終わらせようと思って私が殺ったと言った。」などと供述している(四月一九日付け検面調書)。
原審検察官は、三月二〇日の事情聴取の際、被告人自身被疑者として取り調べられているという印象を持ったと供述しており(被告人の原審公判での供述)、しかも、被告人自身これまで幼児を誘拐したことで三回服役しているのであるから、Aを連れて和泉市伯太町へ行っていないのであれば、自己の三月一九日の行動について、明確にできるS警備に行ったことを供述し、その裏付けを取らせて嫌疑を晴らすのが普通である。被告人は原審公判廷で「前科の関係でかねてS警備の社長からそこに勤めていることを言わないで欲しいと言われていたので」と弁解しているが、被告人は当時既にS警備を辞めており、さしたる義理もなかったことなどから考えると、右弁解は納得し難い。また、逮捕当初の被告人の前記供述についても、被告人は原審、当審公判廷で、「S警備へ行ったのは、三月一九日のみでなく三月二一日も行っており、三月二一日の時は午前中だったので、その日と三月一九日を聞違えた」と説明しているが、被告人は三月一九日S警備へ行き、三月二〇日西成警察署で取調べを受け、三月二一日に再度S警備へ行っているものであり、二回のS警備行きの間に、西成警察署で事情を聞かれ、調書を作成されるという被告人にとっては極めて印象深い体験をしており、三月一九日と三月二一日を混同するとは考えられない。被告人が、三月一九日午前中にS警備へ行ったと弁解したのは、その日の昼にAを丸安食堂を連れて行っていることから、午前中にすれば丸安食堂で別れたという理由がつくからである。ここでも被告人がAを和泉市へ連れて行っていないのであれば、当初から三月一九日午後だと言えば、それで済むことであって、被告人の右否認供述は不自然且つ不合理であり、否認の内容自体殊更、本件犯行の場所、時間から遠ざかろうとしていることが明白である。また、被告人が四月一四日、同月一九日と検察官に対して否認しているのは、そこには、警察で自白するものの、他面死刑になるのではないかという怖さから、何とか罪を免れたいという被告人の心理の現れと認めることができ、そして、被告人の捜査段階における、否認、自白の変転はあるものの、自白に至る経緯、否認した理由、再度自白する状況を子細に検討すれば、そこには、被告人の性格、心理の葛藤が認められ、合理的に説明できるのであって、単に自白、否認を繰り返しているという一事をもって、被告人の自白に信用性がないと判断すべきでない、と主張している。そこで検討する。
(2) 三月二〇日の西成警察署での弁解並びに逮捕直後の被告人の否認供述について
原判決は、被告人のこの点の弁解は容易に納得し難いものがある、と判示しながら、結局、三月二〇日の事情聴取は、誘拐の嫌疑を受けているということを感じ取っていたとはいえ、あくまで参考人としての事情聴取であり、S警備のこともこれに言及しなかったにすぎず、逮捕後の虚言も、弁解のように勘違いとは考えられないが、この時点では誘拐殺人の嫌疑で逮捕されているのであって、自分が昼食を一緒にした被害者が、そのあと自分が行ったS警備の近くで殺害されたというのであるから、たとえ犯人でなくてもできるだけつながりを否定したくなるのも人情であり、検察官が主張するように、被害者を連れていっていないのであれば、最初から一九日の午後にS警備に行ったと言えば済むことと言い切れるものではなく、過大に評価できない、と判示している。
所論は、本件犯行の翌日である三月二〇日の西成警察署における事情聴取での被告人の供述では、一九日午後本件殺害現場に近いS警備に行ったことを殊更隠して自己の行動について供述していたことが認められる。当時、被害者の母A2から迷子の届け出がなされ、その際、被告人と一緒の写真が提出され、被告人が連れ出したのではないかとの申告もなされたので、同署において、参考人として事情聴取したときのものである。したがって、被告人が被害者を誘拐したのではないかとの一応の疑いはあったものの、死体はまだ発見されていなかったばかりか、一九日午後の被害者の足取りも全く分からない時点であるのに、被告人が殊更一九日午後本件殺害現場付近に近いS警備に行ったことを隠していたことは、少なくともS警備付近で被害者を殺害したことを知った者でなければとらない供述態度である。被告人はこの点につき「社長から『君は前科があり、警察とごたごたあったときにまずいから、会社の名前を出さないでくれ。』と言われたから、S警備に行ったことを言わなかった。」旨弁解するが、当時被告人にS警備やその経営者のためにS警備に勤務していたことを秘匿しなければならない義理があったとは到底考えられず、右弁解は、真意を語ったものとは認められない。参考人としての事情聴取であっても、当日昼まで行動を共にした幼児がその後行方不明になったことを聞かされ、事情を尋ねられれば、誘拐の疑いをかけられているか否に関係なく、通常、ありのままの行動について真実を供述するものである。被告人がこの事実を忘れたり記憶違いすることもあり得ず、被告人がこれに言及しなかったのは、当時犯人しか知り得ない被害者の死体のある場所、殺害現場を被告人が既に知っていて、これに近いS警備に、犯行時間帯である当日午後立ち寄ったことを言及したくなかったからにほかならないというべきであって、これこそ、秘密の暴露に匹敵する極めて重要な供述態度であり、原判決が言うように、単純に「これに言及しなかったにすぎない」との評価で片付けられるものではない、と主張している。
弁護人は、これにつき、被告人は、前科者である自分を雇ってくれたS警備の中村社長から本来前科者をガードマンとして雇い入れることはできないから、その事を黙っておいてくれと口止めされていたので、あえて自己の弁明のためにS警備のことを言わなかったと弁解しているところ、この弁解はもっともなことであり、原判決の説示するようにS警備をやめている以上、遠慮することはないとも考えられるが、一方、好意で雇ってくれた会社に対する恩義でもって、右事実を秘匿したとしても当時の被告人を巡る状況からして、さして不可思議なこととまでいうことはできない、と主張している。
しかしながら、逮捕後の虚言は原判決の説明で一応納得できても、三月二〇日の被告人の供述はいかにしても不自然である。被告人は原審第五二回公判で三月二〇日の事情聴取の際、伯太町に行ったかとの質問がなかったので、黙っていた旨弁解している。確かに、一般経験上、質問がなければ自分の行動を積極的に述べないことも少なくない。しかし、本件では参考人としての事情聴取であっても、誘拐の容疑で調べられ、同種前科があり、現に三月二〇日付け員面調書によれば、その日、多数ある前科のうち、殺人や傷害のほか略取、誘拐の前科一件について事案の概要を供述させられているのであるから、当日昼ころまで行動を共にした幼児がその後行方不明になったと聞かされ、事情を尋ねられれば、通常ありのまま供述するのが、むしろ自然である。しかも、被告人が前日の自己の行動について忘れたり記憶違いすることなど考えられない。被告人は、当審公判で、三月二〇日は自分も加わって行方不明のA君を捜した、と供述しており(この点は、司法警察員作成の「誘拐殺人事件の新聞記事のコピーについて」と題する捜査報告書、原審検察官請求証拠番号一八〇添付の一部の新聞記事の中にも出ている。)、更に被告人は前認定のとおり、三月二二日午前中、西成警察署に行き公廨で「俺は疑われている。」などとわめいたりしている。それほど被害者のことが気がかりで、そのことで自分に疑いがかけられていることを感じているのであれば、積極的に自分の一九日の行動を明らかにして身の潔白を証明すればよい。また、所論指摘のとおり、当時被告人が自分に児童誘拐の嫌疑がかかりながらもS警備に勤めていたことを隠すほどの恩義があるとも思われない。被告人は既に三月二日S警備を解雇され、被告人の原審公判供述によれば、その後三月中旬ころ再就職を頼んだが体よく断られている。被告人は三月一九日S警備を訪ねたときは、そこを完全に辞めたことを前提として金銭面の清算手続きをしており、しかも、前掲原審第二回公判のY証言によれば、当日も三月二一日にも被告人がS警備に来たとき、被告人の方から就職の話は出なかったということであり、被告人に再就職の意思がないか、又は頼んでも再就職は無理だと思っていたと推察できる。そうすると、被告人がS警備に義理立てする格別の理由はなかったといえる。したがって、被告人の弁解は納得できず、三月二〇日に西成署で事情聴取された際、三月一九日午後にS警備に行ったことを隠したのは被告人が既に殺害現場を知っていて、これに近いS警備に犯行時間帯である当日午後立ち寄ったことを言及したくなかったからではないかとの感が強い。したがって、被告人の右否認供述は自白の信用性を左右しないばかりか、かえってその信用性を高めるものといえる。
(3) 被告人の検察官に対する否認供述について
この点について、弁護人は、被告人が自白から否認に転じたのが四月一四日、四月一九日のいずれも検察官の取調べであったことは、むしろ、取調警察官の拷問を明確に説明し得る。被告人としては、拷問する警察官の圧力が弱い空間において、初めて否認が可能であった。それは決して、検察官の主張するように「検事の前で言ってしまったら終わりだ。」とか「検察官の取調べは裁判所に行くけど、警察官の調書は裁判所ではどうにもならんから別にかまわん。」というからではない。被告人にかかる刑事訴訟法の証拠法則の認識があろうはずがないし、万が一あったとしたら、被告人の調書は刑事訴訟法三二二条によって員面調書と検面調書の差がないことも知っていたはずだからである、と主張している。
しかし、被告人の自白調書に任意性が認められることは前認定のとおりである。そうすると、被告人が何故検察官の取調べにおいてのみ殊更否認したのか考察しなければならない。原審第三八回公判において植松警部補は、被告人が同警部補の取調べの時、「検事の前で認めないのは身がかわいいからだ。」、「検事の前で言えばもう死刑台行きだと。」と言っていた旨証言し、更に原審第二八回公判で後藤巡査部長は、被告人が同巡査部長の取調べの時、「検察官の調書は裁判所に行くけど、警察官の調書は裁判所ではどうにもならんから別にかまわん。」と話していた旨供述している。当審における大堅検察官の証言及び前示四月二一日付け検面調書によれば、被告人はその取調べのとき涙を流し頭をうなだれて供述をした事実が認められ、これらを総合すれば、被告人は検察官に対して自白することを極めて深刻に受け止めていた事情が窺える。被告人には多数の前科があり、数多く裁判を受けており、被告人が不確かな知識として、員面調書と検面調書とでは取扱い又は証拠価値の面においてそれなりに差異があると考えていたものといえる。加えて、本件が極めて重大事件であることは被告人としてもよく解っていたはずである。このような事情から被告人が検察官のもとで、一四日と一九日と犯行を否認したものと思われ、したがって、この事実をもって被告人の自白調書全体の信用性が損なわれることはないというべきである。
(五) 原判決が被告人の自白調書の内容に客観的証拠によって認められるところと齟齬し又は不自然・不合理なところがあると判示している諸点について
(1) 自白と客観的証拠との食い違い又はその可能性を指摘する点について
① 現場に遺留されていた軍手から人血はおろか血痕付着の証明が得られなかった点について
原判決は、現場に遺留されていた軍手については、「当時被告人も軍手を常用していたという以上にこれと被告人とを結びつけるものは何もなく、労務作業に従事する者など軍手を常用する者は何ら珍しいことではないから、現場に格別特徴のない軍手が遺留されていたからといって、そこに被告人との結びつきを見出すことなど到底できない。」と判示する一方で、被告人は自白調書において、「被害者の胸部、腹部を突き刺したとき、着衣を脱がせたときは右手に軍手をはめていた。着衣を脱がせた後軍手に血が付いていたので脱いでその付近に捨てた。」旨供述しているところ、関係証拠によれば、被害時被害者の創傷から相当量の出血があり、被害者の着衣にもかなりの血が付着したことは明らかで、被告人が被害者の血が自分の着衣に付かないよう気を配った形跡は全く窺えない。被告人の供述する犯行状況からすれば、軍手には相当量の被害者の血が付着したと考えるのが自然である。しかるに、軍手には小指の付け根のごく小さな部分に血痕付着の疑いという反応を得たにとどまるということは、約二週間現場に放置され、大阪管区気象台長作成の照会回答書によれば、三月十九日から四月五日までの間には、堺で九一ミリ(五回、一回につき最多三六、最少二ミリ)、河内長野で九七ミリ(同最多三四、最少二ミリ)、熊取で九一ミリ(四回、最多三九、最少一二ミリ)の降水があり、現場付近もほぼ同程度の雨が降ったものと推認され、これによって付着血痕がある程度流失したことは考えられるが、その影響を考慮してもあまりにも少なすぎる、と疑問を投げかけている。
これに対して、所論は、被告人は、四月一三日付け員面調書の中で、被害者の陰茎をもてあそんだ旨自白した際、手袋は脱いでいたと供述している(同調書)(注、同調書では陰茎をもてあそんだ旨の供述はあるが、手袋を脱いでいたとの供述はない。この点は所論の誤りと認められるが、ただ陰茎をもてあそんだとすれば、手袋をしていなかったものと推認はできる。)。現場に遺留されていた軍手が左手に使用されたものと窺われること(原審第一一回公判における証人面谷尚也の証言)等にかんがみると、被告人が被害者を切出しナイフで刺したとき、右手に軍手を着用していたとは認めがたく、被告人が「被害者の胸部、腹部を突き刺したとき、着衣を脱がせたときには右手に軍手をはめていた」旨述べるところは真実を述べているとは考えられず、被害者の陰茎をもてあそんだことを秘匿するため、あえて虚偽の事実を述べたのではないかとの疑問の生じるところである。したがって、現場に遺留されていた軍手の血痕付着の量が少ないことをもって自白の信用性にかかわる重大なものと考えるのは相当でない、と主張している。
弁護人は、被告人の自白調書において、被害者を突き刺したとき、右手に軍手をはめており、その際、血が付いたので、脱いで付近に捨てた旨記載されているが、そうすると、軍手にごく小さな部分にしか、しかも血痕付着の疑いという反応しか出なかったということは、右自白調書と明らかに矛盾するといわなければならない。検察官は、右矛盾を回避するため、証拠もないのに、被告人は手袋を脱いでいたと解釈しているにすぎない、と反論している。
そこで検討するに、現場に遺留されていた軍手一枚(<押収番号略>)の特徴は前示のとおりであり、かなり古くところどころほころびかけている。しかも白糸でかがったような跡も見受けられる。被告人の四月二五日付け員面調書によれば、被告人は現場に遺留した軍手を一月末か二月初め西成区萩之茶屋の丸吉商店からダース買いした中の一つか、同店から少し南に行ったあたりでバラ買いしたものの一つであると、供述している。さらに、同調書には丸吉商店から買った軍手は確か手首に黄色の縫い込みが入っていた、もう一箇所で買った軍手には手首に緑色の縫い込みが付いていたとの供述記載があり、色の上では類似性もあるが、前記のようなその他の特徴については供述していない。このようにして、現場に遺留されていた軍手とは若干種類が異なる印象がある。しかも、司法警察員作成の四月一二日付け実況見分調書によれば、その軍手は現場付近から発見された遺留品の中ではもっとも離れた位置、すなわち木製鞘からさらに北1.06メートルの死体より離れた場所に、枯れた笹などが上を一部覆っており、その遺留状況をも併せ考えると、被告人が落とした軍手ではなく、犯行以前に本件とは無関係に偶然現場付近にあった可能性も否定できない。
また、所論指摘のとおり、被告人は四月一三日付け員面調書では、殺害前、被告人は被害者の陰部をもてあそんだと供述し、その供述を前提にすれば、被告人はその時、手袋(軍手)を脱いでいたと考えられ、したがって、殺害時においても軍手を手にはめていなかったと推認できる。また、原審第一一回公判における面谷尚也の証言及び同人作成の軍手に関する鑑定書添付写真等によれば、その汚れ具合などからみて、現場に遺留されていた軍手は日頃左手に使用されていたものではないかとも考えられる。そうすると、被告人の四月二五日付け員面調書に、「軍手片方については、私がA君を殺した時右手にはめていたもので後にポケットからちり紙を出したりしましたからその時脱いでその付近に捨ててあったと思います。」と記載されているのは、被告人が捜査官から現場遺留の軍手に関して被告人が現場に遺留したものではないかとの観点から追及され、適当に答えてこのような内容になったとみる余地が大きい。被告人は原審第五一回公判では前出のとおりその軍手は自分の物ではなく、現場で右手に軍手をはめていたなど話していないと供述している。いずれにしても、現場に遺留されていた軍手の血痕付着の量が少ないことをもって直ちに被告人の自白の信用性が左右されるものではない。
② 被告人の着衣等に付着した血痕の量が少なすぎると指摘している点について
原判決は、この点について、被告人の防寒上衣の右そでに被害者と同一の血液型の血が付着し、被告人の短靴の底等に人血が付着していたという点については、確かにわずかとはいえ、他人の血液が自己の着衣に付いていたり、まして靴の底に他人の血が付くなどという機会はそうそうあるものではなく、特段の事情がなければ、このことは被告人に対する嫌疑を抱かせるに足る重要な要素であることは否定すべくもない(なお、靴底の血は、そこに被告人の血が付く機会があったことを窺わせるものはなく、他人の血と推認される。)と判示しながら、被告人は昭和五七年四月一日ころの深夜、上野公園で喧嘩をし、その際相手の男性に、頭部を一升びんで殴りつけて加療一週間を要する頭部裂傷を負わせている。この男性の血液型も(注、被害者のAと同じ)A型であったことが認められ、被告人の着衣等に付着している血は、その際に付着した可能性も否定できない。なお、この点について被告人は公判廷において、右の喧嘩の際には着衣に血は付かなかった、と述べているが、子細に見分したわけでもなく、付着の程度、防寒衣の色調等にかんがみ、右の可能性は否定できない、と判示し、かえって、現場に遺留された軍手の場合と同様の理由で、被告人の供述する犯行状況から見て、被告人の着衣に付着した血痕の量があまりにも少ないと疑問を投げかけている。そして、被害者の着衣にかなりの血が付着したことは、すくなくとも下着についてはシャツの残留血痕の状況等から明らかであり、被害者のトレーニングウェアとセーターに燃やそうとした痕跡があるところ、被告人の自白調書に、被害者の着衣を燃やそうとしたが、「血がついているためか」よく燃えなかった、とあるところからすれば、トレーニングウェアなど上着にもかなり血が付いていたということになる、と指摘している。
所論は、逆に、被告人の着衣に被害者と同一の血液型の血が付着し、被告人の短靴の底にも被告人のものではない人血が付着していたということ、被告人は上野公園での喧嘩の際には自己の着衣に血は付かなかった旨公判廷で供述しているところからすると、被告人が本件の犯人であるという決め手とまでは言い得ないまでも右付着の血痕は、本件被害者の血痕である可能性が強い。なお、被告人の防寒上着に付着した血痕の量が少ないのは、被害者の刺創がいわゆる返り血を浴びせるようなものではなかったからにほかならない、と主張している。
弁護人は、原判決の判断や疑問をもっともであるとして支持している。
そこで検討するに、被告人の着衣に付着した血痕の量が少ない点は、前認定のとおり被害者の刺創はいずれもいわゆる返り血を浴びせるようなものでないことから、必ずしも本件を被告人の犯行と考えて矛盾しないといえる。現に前認定のとおり、現場付近の池から発見された被害者の衣類のうち死体の創口と直接接していないトレーニングウェアからは鑑定の結果人血証明を得るに至っていない。加えて、被告人は原審第五一回公判で、三月一九日当時着ていた防寒上衣は平塚の飯場で連れていた女性に一度洗濯してもらったと供述している。また、前示のように、被告人は、「三月一九日ころ着用していたベージュ色の上衣については、三月二五日東京に引っ越す際に要らないと思い、××荘に置いたままにしてありましたが、その後どうなっているか知りません。」と供述している(四月二四日付け員面調書八枚綴りの分)。何故、上衣だけを××荘に置きっぱなしにしたのか疑問が残るところである。単に要らなくなったというのも、被告人の経済状態などを考えると、直ちに納得できる内容ではない。したがって、被告人の着衣には本件犯行によってそれほど被害者の血が付着しなかったとも考えられるし、他方、そうでないとしても、被告人が逮捕当時には既に血痕の付着していた背広上衣は処分し、防寒上衣についてはその跡を消していたとも考えられ、本件も被告人の自白の信用性を直ちに左右する事実とは思われない。
③ 被害者の前胸腹部の刺創の形状
原判決は、被告人の自白するナイフの用い方では手首に無理がかかり、死体に残されたような刺創を残すことが困難であると判示するかの様であるが、この点についてはすでに検討したとおりであって、必ずしも正鵠を得た指摘ではないといえる。
④ 被害死体の姿勢
原判決は、被告人の自白によれば、被害者のトレーニングウェア、セーター及びシャツを「背中の下の方から頭の方に引きずり上げるように両手を上に引っぱり上げ引き脱がせた」、「体を…回すようにしてうつ伏せにした」(四月一三日付け員面調書)、「背中の下から引き上げるようにして両手を上にあげるような格好にし、脱がせ」、「体を回すようにしてうつ伏せにした」(四月一八日付け員面調書)と言うのであるが、そうだとすれば、被害者の死体をその時点では両手を上に挙げてうつ伏せになっていたはずである。ところが発見されたときの被害者の姿勢は左手をほぼ真っすぐ下に伸ばしていたのである。うつ伏せの状態で死後死体がそのように姿勢を変えるか疑問である、と判示している。しかし、この点については前示のとおり、被害者の刺創はいずれも即死状態になる傷ではなく、傷害と死亡との間にはある程度の時間の経過があったものと認められ、その間に被害者が苦しみながら両腕を動かしたり、体を動かすことは当然あり得ることであって、したがって、被告人の自白と死体の姿勢が多少異なっていても自白の信用性を左右するものではない。この点は、前認定のとおり、被害者が、死後地面にあったと思われる熊笹や松葉を両手でつかんでいた事実からも首肯できる。
⑤ 犯行現場への経路
原判決は、被告人はその自白の中で、現場に至る経路について、「老人ホームの先にキャンプ場があるそこから藪の中へ入ったその中を通って現場へきた。」(植松メモの中の四月一三日の供述)、「老人ホームを少し過ぎた左側に大きな門があってその中は青少年のキャンプ場のようなところでした。・・・・そのキャンプ場の中に入り、」(四月一三日付け員面調書)、「老人ホーム前の通りを少し上がった左手にあるバリケードの様な大きな門のある青少年キャンプ場の中に入りそこは少年が集まって飯合すい飯(注、原文のまま)をしたり、キャンプをしたりするような場所ですが、」(四月一八日付け員面調書)、「老人ホームの所にあるキャンプ場を見せてやろうと思い連れていったのです。(注、この供述調書には、さらに、キャンプ場には雑木林や、松林が池を囲むようにあり、その時も近くに人が居たのか、話声が、聞こえていたのを、覚えております、との記載もみられる。)」(四月二〇日付け員面調書)、「老人ホームの所を通って青少年キャンプ場の所へ行ったのです」(四月二二日付け員面調書)と述べていたが、四月二三日現場引き当たり捜査が行われた後に同日作成された司法警察員に対する供述調書で突然「青少年キャンプ場のあるところより少し手前の松林に入った。」と供述を変更して、その変更の理由について、前に△△荘のFを遊びに連れて行ったときと勘違いしていたことが現場に行ってみて分かった(四月二三日付け員面調書、四月二七日付け検面調書)、と述べているが、両者は様相なども異なり位置的にも相当離れており、本件のような重大犯罪を犯したときのことと、以前に幼児を連れて遊びに行ったときのこととを「勘違い」して間違うなどということは到底考えられない、変更前の供述にある「青少年キャンプ場」が「大阪市立信太山青少年野外活動センター」のことをいうのか、そこから更に伯太―山荘線道路を南東へ約三四〇メートル余り離れた「同野外活動センター・キャンプ場」のことを言うのか必ずしも明確ではないが、前者、後者いずれの場合においても、犯行現場との間には高津池、上池などがあり、池は樹木や笹等が生い茂った雑木林に取り囲まれているなど道路に出ずに現場に行くことは非常に困難であると考えられる。その困難を排してあえてここを通り抜けたとすれば、供述にもそれなりの状況をうかがわせるものが出てきてしかるべきである。自白では、探偵ごっこのようにして歩きまわった、としか述べていないのは不自然の感を免れない、現場は取調官に教えられた、との被告人の公判廷における弁解には排斥し難いものがあり、被告人は現場を知らなかったのではないかとの疑念を抱かざるを得ず、この疑問は重大である、と判示している。
所論は、この点について、被告人は、被害者を初めから殺害するという重大な目的を持って現場に連れて来たものでなく、被害者を遊ばせるために連れて来たにすぎないのであるから、連れ歩いている過程において、松林から道路等に何回か出たり、また道路等から松林に入った可能性も否定できず、被告人が現場に至る経緯を正確に供述できなかったとしてもやむを得ないことと考える余地もある。また、被告人の捜査官に対する反抗的態度を併せ考えれば、捜査官の質問に対し、被告人が適当に答えたり、反発する態度に出たことも容易に推認できるところであって、これらの事情を勘案すれば、右供述の変遷などをとらえてこの点に関する被告人の自白の信用性を否定するのは誤りである、と反論している。
他方、弁護人は、犯行現場に至る経路は、本件犯行において、最重要事実の一つであり、この事実において、客観的な状況と符合しないこと自体右供述の信用性のないことを証左するにあまりあるばかりか、客観的状況と符合しないことが判明したのは四月二三日の現場引き当たりの際であり、その日を境に突如勘違いを理由に供述が変更されることは、まったくもって説得力がなく、また、不自然である。右事実は、被告人の自白調書が取調官の誘導に迎合して記載されたものであることを示しているといわなければならない、と主張している。
そこで検討するに、原判決がこの点を自白の信用性を否定する上で重視したことは判文上から明らかである。しかし、四月一三日付け員面調書添付の被告人作成の殺人現場見取図では犯行現場は、その付近の施設との位置関係などほぼ正確な記載がなされている。本件はそこに至る経路の問題である。前認定のとおり、被告人は以前供述に出てくるキャンプ場近くに△△荘に住んでいた子供を連れて遊びに来ており、その時付近の様子をある程度頭に入れていたものと思われる。前記見取図を見てみると、殺人現場の×印の南東方向に老人ホームが記載され、さらに南東方向に下がった位置にキャンプ場が記載されている。ただ上池や高津池の記載はない。被告人は以前同所付近に行ったときの状況について、原審第四三回公判で要旨次のとおり供述している。「KちゃんとQちゃんを連れて行ったのは、△△荘に入って間もないときで五六年の一二月ころである。そこにキャンプ場などがあると教えてくれたのはDである。牛乳なんか売っているところがある(注、別紙見取図2の河野商店の位置を指示)、それを右に曲がってしばらく行くと右側には老人ホームがある。あれのちょっと先だと思った(注、犯行現場のことか)。左手に本館があります。ここにいったん寄ったんです。そこではんごうすいさんやってた。御飯炊いて食べるんだよと子供に教えて、それで出て来て、ここを行くと売店があった。当時は突き当たりに売店があり、サイダー飲まして、元来た道を真っ直ぐ帰った。帰りに例えば草っぱらなどに寄り道などせず帰った。道路半分舗装されかかっていた。」というものである。また、経路そのものではないが、現場付近の状況について、自白調書では四月一三日付けの員面調書から一貫して被告人は殺害後剥ぎ取った被害者の着衣などについて、道路に出てフェンスの所から池に向けて投棄し、三月二一日に再度S警備に行った際、木の枝に引っ掛かっていた衣類の一部をこうもり傘の先で取って池に投げこんだ旨記載されている。その点については原審、当審公判でも取調官から格別誘導されたとは供述していない。特に三月二一日の行動については想像で、しかも真実味を出すためにさも本当らしく言ったと供述している。さらに、凶器の切出しナイフの処分方法につきあの付近で処分場所として考えられるのは池しかないので、池に放り投げたと作り話をしたと供述している。加えて、被告人は原審第五三回公判で、四月一三日付け員面調書調書に添付されている殺人現場の見取図については、老人ホームのある所、それと本館(注、青少年野外活動センターの建物と解される。)のあるところは自分で書いた(注、もっとも、×印を付した殺害場所そのものについては後藤巡査《巡査部長》が自分で印をつけ、そのあと私が自発的に書いたように書き直した)旨供述している。
以上によれば、被告人の弁解どおり、犯行場所そのものは自ら進んで供述しなかったとしても、捜査官から指示されて記載したその位置、付近の地形及び建物等の配置状況は引き当たり前からある程度頭の中で思い浮かべることができたものと認められる。捜査官が、犯行現場に至る道筋について、原判決指摘のような通行困難な経路をあえて誘導して自白させたとも考えにくい。四月二三日の被告人を同行しての実況見分(現場引き当たり)における責任者の増田義則警察官は当審で、被告人は犯行当日の行動経路及び犯行状況を自ら指示説明し、犯行現場の松林に入った場所も、実際にその状況を見て指示説明した旨証言し、さらに、被告人がその時「⑰としてあります電柱(ゴルフ一四)、ここへ来たとき、ここから入ったということで一時松林のほうに入りかけたんですが、あっ違うなということで、また折り返して出て来ました。このとき本人が今までと違って、顔色を緊張させていたことが印象に残っております。それから出て来た甲は、再び老人ホームのほうに向かって歩き、図面の(ゴルフ一五)と書いた地点から約一五メートルぐらい東方向に行った、熊笹の生い茂ったところから示して、ちょうどその場所が獣道となっておりまして、若干熊笹が踏まれて獣の通った道のような跡がありましたので、そこから中に入ったという説明でした。」と証言している。一方、同じく右引き当たり捜査に同行していた後藤巡査部長は原審第二八回公判で、要旨、「山林に入った位置については、最初養老院か何かの正門のところと供述していたが、現場に行って、この場所と違って、犯行現場に近い森の柵のところから乗り越えて山林に入ったと場所が移動し、その場所は従来の場所から一〇〇メートル位手前だった。」と証言している。右両証言から、警察官が犯行現場に行く松林内への入口を被告人に示唆した状況は窺えず、むしろ、被告人自身が現場を見て訂正したと認められる。ところで、一部前示したように右引き当たり捜査の直後に作成された被告人の四月二三日付け員面調書では、「私は前にもう少し上がったところにある青少年キャンプ場のはんごうすいさんの出来るようになったところの門から入ったと話していましたが、これは私が△△荘に住んでいたところ△△荘に住んでいたF三歳を遊びに連れて行った時と勘違いして話していたもので、今回現場に行って思い出しましたが、A君を連れて行ったころにはキャンプ場の手前の方は道路工事をやっており、道端にバリケードの様な柵を置いてあったのですが、今日案内して写真を取ってもらいました様に老人ホーム手前の左側の藪のところから松林の方に入ったのです。」となっている。また、被告人は原審第五一回公判で、引き当たりの際の状況について、要旨次のように供述している。「現場に行く前から殺された場所はどの辺だということは教えられていたので分かっていた。ところが、現場に行って見たら、全然違っていた。ずっと先の方が現場だと言われていたが、現場はずっと手前だった。手錠かけて繩かけられて行ったが、あいつら(注、捜査官)後からついて来た、私がその教えられた現場に行くつもりだったが、そこじゃねえ、もっとこっちだと刑事に言われた。」と。また、同五二回公判では、「(殺害現場については)教えてくれたから大体見当がついた。こっちの現場に行くなら遠回りして行ってやれという気になった。私は久し振りに表出たからと思ってほうぼう歩きたいからでたらめ言って・・・・」と供述している。これらの被告人の供述からは、その真偽のほどはともかく、犯行場所そのものについては被告人が通り過ぎようとして警察官に引き戻された状況は窺えるが、松林への入口ではそのような状況は窺えない。むしろ、被告人自身が引き当たり捜査の際に捜査官を翻弄しようとしていた態度さえ窺える。
そうすると、本件については、単純に思い違いをしていたか、あるいは、所論指摘のとおり、被告人が被害者を連れ歩いている過程において、松林から道路等に何回か出たり、また道路等から松林に入った可能性も否定できず、被告人がこの点を正確に供述できなかったり、あるいは捜査官に対する反抗的態度から、適当に答えたり詳細な説明を省略していたところ、現場に連れて行かれて自ら従来の説明を一部変更せざるを得なかったものと認められる。
したがって、犯行現場への経路に関する被告人の供述の変遷もいまだ被告人の本件犯行を認める自白調書の信用性を左右するものとはいえない。
(2) 自白に犯人であれば当然なされるべき説明が欠けていたり、自白の中の不自然ないし不合理な説明であると指摘している点について
① 被害者の顔面打撲及び死体に乗せられていた松の木の枝について
原判決は、被害者の右眼裂の上下及び眼球血膜に生活反応の明らかな打撲傷が認められるところ、関係証拠によれば、右の打撲傷は、手拳もしくはこれに類する表面の比較的滑らかな鈍体によって形成されたものであると認められるところ、被害者がうつ伏せに倒れたときにこれにふさわしいものが地面にあれば発起可能であるが、現場にはそのようなものは見当たらず、かつ表皮剥離を伴っていないことから被害者が倒れた際に生じたものと考えにくく、犯人が手拳によって殴打したものと推認するのが最も合理的であるが、被告人の供述するところからは、右の損傷が何時どのようにして生じたか全く不明である。また、被害者の死体の上には犯人が折り取って乗せたと思われる松の木があったが、この点について植松メモに「死体の上には何もかけない」との被告人の供述らしきものが記載されているものの、自白調書では全くこれに触れていない。真犯人であれば当然あってしかるべき説明が欠けていると言うことは、その自白の信用性を考える上で消極的に働くものであることも否定できない、と判示している。
前掲吉村鑑定医は当審第四回公判で、顔面の打撲傷は手拳等で殴ればできるし、倒れたときに突起物、石ころ、あるいは木の切れっ端でも成傷可能である旨証言している。したがって、被害者が地面に倒れた時できた可能性も全く否定しさることはできないが、一方、現場で被害者が被告人のもとから逃げ出そうとした時、被告人が同人をつかまえ、激情に駆られるまま犯行の何処かの場面で被害者の顔面を殴打した可能性も考えられ、被告人がそれらの犯行の細部にわたる部分については記憶していないことも十分ありうることである。
松の木の枝については、原判決の指摘のとおり犯人が犯行現場近くのものを折って被害者の上に乗せたと考えるのが合理的であり、しかも、当初死体発見現場で捜査官が右事実に気付かなかったとは考えられない。植松メモの中に「死体の上には何もかけない。」と記載されているのは、捜査官の方でこの事実を意識し被告人からその説明を受けようとしたが、その供述を得られなかったことを窺わせる事実である。本件の警察の実質的な捜査責任者戸次警部が当審第三回公判で、松の枝については被告人の方に尋ねていないと証言し、同じく大堅検察官が当審で、警察の実況見分調書をよく見ていなかったので、被害者の死体の上に松の枝が乗っていたことに気付かなかったと証言しているのは直ちに信用できない。しかし、いずれにしても、この点について被告人が自白調書の中で何ら説明していないことは事実である。本件が自白の信用性を考える上では消極証拠の一つであることは否定できないが、しかし、前示のとおり被告人は自白している時期にあっても捜査官にすべてを打ち明けているわけではなく中には、真偽折り混ぜて供述している部分もあると認められることも考慮すると、これが犯行を認めた被告人の自白の信用性を左右するほどの事情とまではいえない。
② 被害者の着衣等の投棄場所について
この点については既に第二の三の3の(一)の(4)で被告人の三月二一日の行動に関して検討しているとおりである。原判決は、被告人が殺害後家も近く人目につきやすい道路に出てから衣類を投棄したのか、不自然であるとも判示しているが、前認定のとおり、被害者の衣類等は道路に近い山池の岸又は池の水底から発見されており、特に白色メリヤス半袖シャツは道路脇のフェンスから約二メートルの場所で見つかっていることからすると、犯人は雑木林の方から池に近づいて衣類等を投棄したとは考えにくく、むしろ、自白調書の方が客観的証拠と符合している。前記のとおりこの点の被告人の自白は、ほぼ一貫している。しかも、被告人は公判で特にこの点について捜査官から誘導されたと弁解していない。
③ 凶器の未発見
原判決は、被告人が凶器を捨てたとする場所は他に流失移動等する可能性のない比較的狭い場所であり、約二週間にわたってかなり徹底した捜査が行われたにもかかわらず、結局そこから凶器は発見されなかったことに疑問を投げかけている。
所論は、本件捜査に使用したマグネットローラー及び金属探知機の性能について、マグネットローラーには、切出しナイフの刃の部分全体をマグネットローラーに水平に吸着させた場合は、強力に吸着するが、ナイフを垂直にし、刃体の先端部をマグネットローラーに接着させた場合には、マグネットローラーに吸着するもののわずかな振動でも振り落ち、木製の柄と接着した場合は全く吸着せず、たとえナイフを水平にし、マグネットローラーに吸着しやすい状態にした場合においても、マグネットローラーとナイフの刃体との間に2.1センチメートル以上の間隔があると吸着せず、また、刃体部分に約二ないし三ミリメートルの土がかぶせてあると、1.5センチメートルの間隔でもまったく吸引しない。金属探知機の水中での性能は、ナイフを水平にしている場合、探知部が刃体部分に約二ないし三センチメートルに接近したとき反応感知するが、ナイフが垂直で柄が上になっている場合は同部と柄が接着しても反応しない。このように、マグネットローラー及び金属探知機の性能には限界があり、特に、山池の底には二五ないし八〇センチメートルのヘドロが堆積し、右池に木製の柄のついたナイフを投げ込むと、ナイフはヘドロの上に水平にならず、刃体を下にして垂直に立ったままとなることが十分推測されるほか、マグネットローラーが刃物を吸着するよりも、かえって上からヘドロの中にナイフを押し込む結果になる危険性が大きいことが考えられ、また、金属探知機は、刃物の柄に接触しても反応を示さないことから、本件凶器が発見されなかったものと思料される、と主張している。
凶器の処分については被告人がいまだ事実を隠している疑いを払拭することができないが、関係証拠によれば、捜査に使用したマグネットローラー及び金属探知機の性能については所論指摘のようにその能力に限界があると認められ、更に当時池の水を抜いて捜索することについては地元の水利組合の反対があって実施できなかった事情も窺えるので、被告人の自白どおりであっても発見できなかった可能性も否定できない。いずれにしても、これによって被告人の犯行の自白の信用性が左右されるものではない。
(六) 本件犯行の動機並びにそれと関連して被害者の陰茎切除の理由について
最後に、原判決は、被告人の自白調書では、被害者殺害の動機として、おおむね「被害者が帰ると言って突然立ち上がって走り出し、これを後ろからつかまえたところ、帰るんだ、帰るんだ、と泣いて暴れ出したので、このまま一人で帰られたら、また誘拐で処罰されるおそれがあるし、これまで可愛がってきたのに裏切られた気がして腹が立った。」との趣旨の供述をしており、動機としては一応了解可能のように見えるが、自白調書によれば、更に被告人は被害者が帰ろうと言い出したので「帰ろう」と言ったのに走りだし、止めようとすると泣いたり暴れたりして被告人の手を振りほどこうとしたような供述部分もあり、被告人が被害者の意向に沿って「帰ろう」と言っているのに、何故被害者は泣いたり暴れたりしたのか、その理由が分からず不自然であり、また、その動機とするところは、激しやすくいささか特異な被告人の性格をいかに強調してみても、子供好きの被告人が本件のごとき残虐な犯行を行う動機としては甚だ弱い、と判示している。
所論は、被告人は犯行前に被害者の陰茎をもてあそんだことが認められ、それが原因で被害者が嫌がり、泣き出したりあるいは帰りたがったりしたということが優に認められるのであり、たとえ被害者が被告人に今まで可愛がってもらっていたとしても、被告人のかかるわいせつ行為を嫌がるのは当然で、被告人はこのように嫌がった被害者に腹を立てるとともに、このまま被害者を帰せば同人に対するわいせつ行為及び誘拐が発覚し、処罰されるのではないかと思い、とっさに被害者に対し殺意を抱き、残虐な犯行に及んだものである。このような犯行動機の形成過程は、小児が被告人に対する不服従や反抗、軽蔑を被告人において感じるときに小児に向けられる攻撃性の一つとして、容易に理解でき、これによって、被告人が本件のような残虐な凶行に及んだ犯行動機か首肯される、と主張している。
そして、所論は、更に右動機に関連して当審で次のような新たな事実を主張するに至っている。すなわち、被害者の死体の前胸部に刺創五個、腹部に刺創五個、背部に刺創五個がそれぞれ認められ、腹部の刺創五個のうち一個は臍左に、二個はそれより下部にあり、一方、被害者の白色メリヤス半袖シャツの前胸部、腹部には、一一個の刺創に対応する片刃の鋭利な刃物により形成された損傷痕が認められ、また、セーターの前面にも刃物によるとみられる損傷痕が認められるのに、死体の腹部の臍より下部の刺創部分に対応するパンツ及びズボンの該当部分には刃物による損傷が全く認められないうえ、血痕も付着していない。原判決は、この点に何ら触れていないが、右事実は、本件殺人の動機及び犯行の経緯を解明し、被告人が犯人であることを推認するに極めて重要な証拠であって、原判決が、この点について何ら考察せず、見落としているのは、明らかに誤りであると言わなければならない。この事実は、被害者が下腹部を刺されたときには、パンツもズボンも着用していなかったことを示すものだからである。被告人は四月十三日付け員面調書で「私は急にAちゃんがかわいいと思う気持ちや、何かこの子の陰部に触れてやってみたいといったむずむずした気持ちになり、Aちゃんに『ちっと脱いでみないか』と言ってAちゃんの半ズボンの裾を引っ張るとAちゃんは座ったまま、自分でズボンをもものところあたりまでずり降ろしましたから・・・・、私は右側にいるAちゃんに右手を伸ばして、指先で陰茎をつまむようにして上下にしごいてやりますと・・・・」と供述しており、その後被告人は、その事実を否定しているのであるが、被告人が被害者の陰部をもてあそんだ旨供述するに至った状況について、原審第二八回公判で、後藤巡査部長は、「被告人に対し、子供がかわいいのに犯行に及ぶというのは変質的と違うかと被告人に聞いたところ、被告人は、取調べに同席していた福田部長、浦口刑事に席を外させ、『人がおったらまずいことが、こりゃもう自分だけしかわからんことであって、私は子供がかわいいんだ。かわいい以外にただちょっといたずらをする目的があったんだ。Aくんの陰茎を出して触っておったら泣き出したんで、泣き出して帰ると言い出したんで犯行に及んだ。』と述べていた。」と証言している。前記パンツ及びズボンの損傷と死体の損傷との不一致の事実を合わせ考えると、被告人のこの供述は真相を述べたものと認められる。被告人には証拠上、過去においても幼児に対してわいせつ行為に及んでおり性的異常性が認められ、本件の殺害行為が性的異常性格の被告人が、被害者の陰茎をもてあそんだことに端を発したものであることを考えれば、さらに、被害者の死体からその陰部を切り取る行為もその一連の行為として十分了解できる、というのである。
本件の犯行の動機に関して、大堅検察官は当審で、本件の捜査、起訴を担当した同人としては、本件犯行の動機をどのように構成するかについては大変苦心したところであって、被告人の捜査段階の一時期に被告人が前記のように動機に関してわいせつ行為に絡んだ自白をしていたのは分かっていたが、それを直接動機に掲げるには若干のためらいがあり、そこで、殺害に走る直近の動機を簡潔にまとめて、公訴事実のような書き方をしたが、子供が帰りたいと言って泣き出した背景には、当然被告人のわいせつ行為もあるだろうとそれは立証段階で出てくるものであって、公訴事実に掲げる犯行の動機としては直近のものだけでよいだろう、と考えた。被告人が、被害者の衣類をナイフで切ったときに誤って陰部に傷をつけたので、いっそのこと陰茎を切り落としてしまったなどということは、自分としても「大変おかしい。」と思っていた旨供述している。
弁護人は、右わいせつ行為及びそれを動機とする殺害は、検察官が第一審で主張立証しようとしていた事実ではないのであり、原判決が本件殺害の動機の不自然さと弱さを指摘し、自白調書に信用性がないことの根拠としたことに対し、控訴審になって、初めて主張立証しようとしたもので、その根拠は十分信用性ある証拠に基づくものでないことは明らかである。また、被告人が性的異常性格者であることについては、原審において、既に牧野鑑定において否定されており、陰部欠落についても死体鑑定において、その時期・理由は明確にされておらず、所論は全て根拠のないものである、と反論している。
そこで検討するに、所論はそれなりに考慮に値するものである。もっとも、その前提事実のうち、被害者のパンツに人血が付着していないとしている点は、若槻龍児作成の五月一〇日付け鑑定書に照らして明らかに事実と異なっている。しかし、ズボンの該当部位に刃物による損傷が認められないこと、血液付着の証明が得られなかったことは関係証拠特に勝連紘一郎作成の五月六日付け鑑定書によって明らかであって、したがって、少なくとも被害時点において、被害者はズボンを着用していなかったとの推定は正しいものと認められる(もっとも、ズボンには右腰部《右鑑定書には「左腰部」とあるが、誤記と認められる。》に刃物によると見られる切破痕が認められるので、殺害行為の後、ズボンを完全に脱がせるためこの部分を刃物で切ったと考えられ、したがって、殺害時点においてはずり降ろしていたというのが正確である。)。さらに、前記後藤証言は、原審第三一回公判における福田登及び同第三四回公判における浦口光央の各証言と符合している。しかも、被告人は、前認定のとおり幼児又は児童を対象とする略取、誘拐の前科三件があり、その被害者の一人Eは、当審第七回公判で、昭和四一、二年ころで同証人が小学校一、二年のころ、被告人から無理矢理そのアパートに連れて行かれ、裸にされ、キスされ、陰部をなめられたり、性交類似行為を繰り返された事実を詳細に証言し、同時に、このことは今まで親にも話さなかった事実であると証言している。この点について、被告人は当審第一〇回公判で、E証人の言うころ同人と付き合いがあり、二、三回被告人の住んでいたどや(注、居住にしていた簡易宿泊所の意か)に泊めた事実はあったものの、同人にその証言するようなわいせつ行為をした事実は一切ないと供述し、さらに自分は昭和四五年に右Eを誘拐した事件で裁判を受けたが、その時の裁判の中で、同人に対してわいせつ行為はなかったかということも問題になり、自分ははっきりと否定した、その件を含めて自分の前科になっている三回の未成年者誘拐の事件でわいせつ行為が問題になったことはない旨供述している。そして、被告人の前科となっている略取、誘拐事件の判決謄本(検察官証拠請求番号七四、七六、七八)からも、過去の捜査裁判においてこの点が問題になったような形跡はなく、Eの事件でも、被告人の言うようなわいせつ行為の有無に関する事実の究明はなされていないと推認できる。しかし、これは、E証人が今まで親にも話さなかったと供述しているところからも首肯できる。同証人は、現在では成人して一家を成しており、その中であえて小さいころの忌まわしい記憶を証言したもので、その供述は、具体的であるだけでなく内容が内容だけに信憑性が高いといえる。
次に、鑑定人牧原寛之の被告人の精神鑑定の結果及び原審第五〇回公判における同証言によれば、「被告人は小児愛傾向を有するものであるが、小児を自己の性的快楽のための対象として直接に用いるものではない。また、明らかな性的嗜虐性は認められない。」として、弁護人主張のとおり一応被告人には性的異常行動は認められないと鑑定されているが、この鑑定に際し、鑑定人はE証人の証言するような事実は当然把握していなかったといえる。また、被告人は性的性格特徴や性的嗜虐性の問題を検索しようと意図した心理検査を拒否している事実が認められる。この点について、被告人は当審第一一回公判で、その検査を何で断ったか自分でも分かりませんと供述する一方、「人を馬鹿にしたようなやり方をするんですよね。だからそんなもん必要ないって言ったんです。」「女の裸体の絵を書けとかなんとかって、そんなもの書けって言ったって、書けるわけじゃないじゃないですか。私はそんなもの書いたことありませんから、だからそんなもの書けないって言ったんです。」と供述しており、したがって、被告人に性的異常性が認められるか否かに関しては十分な鑑定資料が得られた上鑑定がなされたものとはいえず、右牧原鑑定をもって被告人に性的異常性が認められないと判断するのは相当でない。むしろ、前記E証言を前提にすれば、被告人には幼児又は児童に対する性的異常性が顕著に窺える。したがって、被告人の本件犯行前に被害者の陰茎をもてあそんだ旨の四月一三日付け員面調書における自白は信用できるというべきである。そして、それが原因で被害者が嫌がり、泣き出したりあるいは帰りたがったりしたものであり、被告人はこのような被害者に腹を立てるとともに、このまま被害者を帰せば、同人に対するわいせつ行為及び誘拐が発覚し、処罰されるのではないかと思い、とっさに被害者に対する殺意を抱き、本件殺害行為に及んだということも十分ありうる。このような犯行動機の形成過程は、被告人の爆発的精神病質傾向の中で、小児が自分に向ける不服従や不機嫌に対して、容易に反抗、裏切り、敵意、軽蔑を感じとり、小児に向けられ攻撃性の現れとして理解することが可能である。また、被害者を殺害したのち、その陰茎を切除した事実(被告人は捜査段階で右陰茎切除の事実を自白しており、その供述場面は迫真性があり、信憑性が十分認められることは前示のとおりであり、ここに至っては、もはやその事実は否定できないといえる。)及びその理由も、被告人の性的異常性の現れ及び小児に対する攻撃の一連の行為として理解することができる。
被告人は捜査段階で本件犯行の真の動機又はその動機形成過程の一部の事実を秘匿していたものといわざるを得ない。
また、原判決は、犯行の動機に関して、被告人が被害者の意向に沿って現場で「帰ろう」と言っているのに何故被害者が泣いたり暴れたりしたのか、その理由が分からないと疑問を投げかけていたが、その理由については、一つにはそれに先行する被告人のわいせつ行為がありうることはこれまで検討したとおりで、その他に第一の二の4で明らかになっているように犯行当日被害者は三時から「子供の里」でけん玉の練習試合を控えていた事実が思い起こされる。犯行時刻には、その集合時間が切迫し又は既に経過しており、被告人と遊び疲れた被害者がふとその事実を思い出して右のような行動に出たともいえる。
いずれにしても、関係証拠を子細に検討すれば、被告人が犯行の動機を完全に自白していないものの、被告人が犯人と考えて、本件犯行の動機としては了解可能なものがあると認められる。したがって、この点の原判決の疑問も解消できるものである。
(七) まとめ
以上詳細に検討したところによると、被告人の捜査段階の供述の変遷は甚だしいが、この点は被告人の本件犯行による処罰の恐れ、将来の裁判に対する配慮、時には犯行に対する後悔の念からくる心の動揺などから出たものと理解でき、自白調書には、犯人しか知りえない事実が含まれその中には客観的証拠と符合するものもあり、自白の信用性を高める重要な事実も認められる。被告人の否認供述は不自然で、被告人の捜査段階の自白に関する公判廷の弁解も到底納得できるものではない。原判決が自白の信用性を減殺するものとして指摘している事実については、指摘自体正鵠を得ないものがあるほか、大半は合理的な説明ができるものであって、自白の信用性を左右するほどのものとはいえない。このようにして、被告人の捜査段階の自白の中に、真実を語ったものとして、重要な点で信用できる部分が含まれており、これによって被告人が本件の真犯人であることは動かし難いと認められる。
四総合的考察
そこで、以上検討した結果に基づき、最後にこれを総合して控訴趣意に対する当裁判所の結論を示しておく。
本件で、まず、被害者は何者かによって三月一九日午後西成区内から死体発見現場の伯太町の松林内に連れて行かれて同所で殺害されたと認められるところ、①被害者の着衣等の処理状況から見て、犯人は被害者の身元が判明すれば疑われる人物と認められるところ、被告人は被害者と日頃から親しくしていたこと、②被害者は当日昼被告人と西成区内の丸安食堂を出た後行方不明になっており、したがって、判明している限りでは被告人が生前の被害者と最後まで一緒にいた人物と認められること、③被告人は現場の地理にも明るいこと、④同日午後現場近くのS警備に現れていること、⑤しかも、そのころ被告人が被害者らしき児童を連れて犯行現場に近い伯太町のCの新聞販売店、J牛乳店、△△荘付近に現れていること、⑥被告人には幼児又は児童を対象とする略取、誘拐の前科三件があり、極めて激昂しやすい性格を有し、しかも、本件死体の特徴として陰茎が犯人によって切り取られていると認められるところ、被告人には幼児又は児童に対する性的異常性が認められることなどの事情に加えて、⑦本件殺害現場に切出しナイフの鞘(本件鞘)が遺留されており、被害者の創傷状態などからみて、凶器はその鞘に入っていた切出しナイフと推認され、被告人は右鞘に適合する切出しナイフを被害者の殺害された当時所持していたと認められること、⑧殺害現場には犯人が放置したと認められるだ液付着のちり紙を丸めたもの二個が遺留され、鑑定の結果、その付着だ液の血液型が被告人の血液型と同じB分泌型であること、⑨被告人には、数枚重ねたちり紙につばをはく習癖もあり、日頃そのちり紙を屋外で投棄したりしていたこと、⑩本件の翌日、まだ被害者の死体が発見されておらず、被害者の行方は犯人にしか分かっていない時期に、西成警察署で本件当日の被告人の行動と被害者の行方について尋ねられた際、当日大阪市西成区内から和泉市伯太町の殺害現場近くに赴いたことを殊更隠し、終日大阪市内にいた旨弁解し、⑪起訴され、拘置所移監時に、利害関係のない第三者に犯行を告白していること(これは被告人の自白と認められる。)、⑫その他、前検討の被告人の捜査官に対する自白のうち特に信用できる一部を総合すれば、被告人が本件犯行の犯人であることはもはや明らかである。特に、本件では右①ないし⑨のとおり被告人の自白の有無に関わらず被告人が被害者を殺害したことを推認させる有力な情況が備わっており、これらの事情に⑪の被告人が拘置所で第三者(R)に犯行を告白した事実を併せると被告人の犯行は明白であるといえる。被告人の捜査官に対する自白も被告人の犯行を裏付けこそすれ、原判決が指摘する自白調書の幾つかの疑問点は決して右認定を左右するものではないといえる。以上のなかには当審で判明したものもあるが、原判決が、自白調書の信用性に焦点を置き過ぎ、多くのその他の重要な情況証拠等の評価を誤っていることも否定することができない。したがって、原判決には検察官所論のような事実誤認があり、破棄を免れない。論旨は理由がある。
そこで、本件控訴は理由があるから、刑事訴訟法第三九七条一項、三八二条により原判決を破棄するが、被告事件について直ちに判決することができるものと認めるので、同法四〇〇条但書により更に次のとおり判決する。
第三自判
(罪となるべき事実)
被告人は、昭和五五年ころA2と顔見知りとなり、その関係で同女とA1の長男A(昭和四九年一一月三〇日生)を日頃から遊んでやったりしていたため、Aは被告人になついていたところ、被告人は、
第一 昭和五七年三月一九日午後零時ころ、大阪市西成区萩之茶屋二丁目四番地萩之茶屋中公園において、当日たまたま通っていた小学校が休みであったAらを見かけ、同人らにビー玉を買ってやって一緒に遊んだりした後、Aだけを誘って近くの丸安食堂で食事をし、さらに同児を連れ歩いているうち、大阪府和泉市伯太町方面に用事を思い出し、同児も連れて行ってやろうと考えるに至り、両親に無断で、甘言を用いて同行を求め、大阪市天王寺区悲田院町一〇番四五号旧国鉄阪和線天王寺駅から電車に乗車するなどして、同日午後、同児を大阪府和泉市伯太町<番地略>先松林内まで連行し、もって未成年者である同児を誘拐し
第二 同日午後、右松林内でAと遊ぶなどしているうち、同児の被告人に対する態度に激昂し、とっさに児童を殺害しようと決意し、所携の切出しナイフ(刃体の長さ約七センチメートル、大阪高裁昭和六三年押第二二五号の一〇の木製鞘はその切出しナイフの鞘である。)で、同児の胸部、腹部、背部を一〇数回突き刺し、よって、そのころその場で、同児を腹部大動脈刺切破による後腹膜腔内出血により死亡させて殺害し
たものである。
(証拠の標目)<省略>
なお、判示第一の誘拐の罪について、公訴事実では、被害者を萩之茶屋中公園(四角公園)から連れ出したところに誘拐の実行の着手を求めており、被告人が被害者をその保護者の明示の承諾も得ずに同公園から丸安食堂更に天王寺公園まで連れて行ったことは前認定のとおり明らかであるが、その場所は被害者の通常の遊び範囲と認める余地もあり、証拠上は、当初少なくともその時点では被告人は被害者を食事に誘ったり、その付近で遊んでやるだけで、そこから大阪市外に連れ出す意思もなかったと認められ、そのかぎりにおいては保護者の承諾も期待でき、被害者をその保護環境から離脱させ、自己の支配下に置いたと評価するまでには至らないので同時点までは本件誘拐罪の成立には疑問がある。しかし、少なくとも天王寺駅から和泉市内に出発した時点においては、前掲原審第四九回公判調書中の証人A2の供述部分及び同人の司法警察員に対する昭和五七年六月三日付け供述調書に照らしても、被害者は知り合いとてなく、これまで同所に行った経験もなく、保護者の同意も期待できず同児を保護者の保護環境から離脱させたと評価せざるを得ないので、その時点をもって本件誘拐罪の実行の着手があったと認めるのが相当である。
また、判示第二の犯行の時間、動機については、証拠上明白な判示認定の程度に止めたが、犯行の動機に関しては既に検討したとおりであり、判示の被告人が被害者の態度に激昂した原因については前示のような理由が考えられる。しかし、この点については被告人が真実を供述しない以上、罪となるべき事実で更に詳細に認定するのは相当でなく、判示のような認定にとどめるものである。
(累犯前科及び確定裁判)
被告人は、
一(1)昭和四九年三月二〇日大阪地方裁判所で殺人、傷害罪により懲役八年に処せられ、同五四年一一月二〇日右刑の執行を受け終わり、(2)その後犯した略取罪により昭和五五年一二月一二日東京地方裁判所で懲役一年に処せられ、同五六年一一月一一日右刑の執行を受け終わり、
二昭和五九年一一月一四日大阪地方裁判所で傷害罪により懲役五月に処せられ、右裁判は同六〇年五月一七日確定した
ものであって、この各事実は検察事務官作成の前科調書、各照応の判決書謄本及び検察官作成の昭和六三年一月二五日付け電話聴取書によって認められる。
(法令の適用)
被告人の判示第一の所為は刑法二二四条に、判示第二の所為は同法一九九条に該当するところ、判示第二の罪について所定刑中無期懲役刑を選択し、被告人には前記一の各前科があるので同法五九条、五六条一項、五七条により判示第一の罪について三犯の加重をし、以上の各罪と前記二の確定裁判のあった罪とは同法四五条後段の併合罪の関係にあるから、同法五〇条によりまだ裁判を経ていない判示各罪について更に処断することとし、右の各罪もまた同法四五条前段の併合罪の関係にあるが、判示第二の罪につき無期懲役刑を選択したので、同法四六条二項本文により他の刑を科さないで、被告人を無期懲役に処し、同法二一条を適用して原審における未決勾留日数中一五〇〇日を右刑に算入することとし、原審及び当審における訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。
(量刑の理由)
本件は、日頃から顔見知りであった被害者(当時七歳)の児童を誘拐して大阪府和泉市伯太町の松林まで連れ出し、同所で同児にわいせつ行為までした上、同児の被告人に対する態度に激昂し、とっさに殺意を生じ、所携の切出しナイフで被害者の腹部、胸部、頸部等合計一〇箇所以上を突き刺したのみでなく、更に背中を数回突き刺して殺害したものであって、残虐非道の犯行というほかない。もとより被害者に何らの落度もなく、犯行の動機に格別酌量すべき事情も見出せない。あまつさえ、被告人は被害者の陰茎をも切断し(陰茎切断の事実を罪となるべき事実からはずしたのは、被告人の四月二一日付け検面調書に、同行為の時点で被害者は既に死んでいると分かっていたなどの供述記載があり、この点を殺害行為の中に含めることは故意の点で問題があると考えたためである。)、さらに、自己の犯跡を隠そうとして、被害者の衣類等を剥ぎこれを近くの池に投棄するなどして罪証隠滅工作までし、被害者の遺体はその場に全裸のまま放置されその間に野犬等に喰い散らされていたものであって、昭和五七年四月五日無残な姿で発見されている。犯行の結果はまことに重大であって、殺害された被害者の両親の悲しみは測りしれないものがある。被告人は、捜査段階では大半自己の罪を認めていたものの、公判に至っては一転して犯行を否認し、不自然な弁解を繰り返し、しかも、原審公判廷で自己に不利益な証言をする証人に対して暴行を加え、傷害を負わせており、反省の情が窺えない。遺族に対して格別慰謝の方法も講じていない(被告人は被害者の両親にあてて香典として五〇〇〇円を送っているが、被害者に対する慰謝というよりも、その真の目的は別にあることは既に検討したところから明らかである。)。被告人にはこれまで、窃盗、傷害、殺人等多数の前科があり、服役期間も通算すると相当の年月に達している。特筆すべきは、昭和四一年ころから本件に至るまで幼児又は児童を対象とする略取、誘拐罪で三回裁判を受けいずれも実刑に処せられており、その中には前記累犯前科も含まれている。被告人は前記のとおり本裁判中に公判廷で犯した傷害罪でも服役しているほか、一審判決後更に傷害罪を犯して服役しており、被告人の犯罪性は顕著でその更生は極めて困難であり、再犯の恐れも大きい。
特にこの種犯罪については一般予防に対する配慮も必要である。
そうすると、本件が計画的犯行でなく現場においてとっさに生じた殺意に基づくものであること、被告人の生い立ちには同情すべきものがあること、その他被告人の年齢及び精神的負因(なお、被告人は異常性格の面は認められるが、本件で責任能力に問題はない。)等被告人に若干斟酌すべき事情はあるけれども、これらを考慮しても、本件については被告人を無期懲役に処するのが相当である。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官小瀬保郎 裁判官高橋通延 裁判官正木勝彦)
別紙<省略>